街の電気屋さんの在り方
街を探索しながらお店を巡ろうということで野田村へ行きました。
ぶらぶら歩いていると「電化製品 肉」という表示のある北末電化製品店を見つけました。肉と電化製品を一緒に売っているなんて珍しいということでお邪魔してみると電化製品はあまりなく、肉も豚肉が中心でそれほど多種を揃えている様子ではありませんでした。
話を伺うと、肉と電化製品を一緒に売っている状況は先代からのことなのでわからないそうですが、一つの業種ではなかなか稼げないためいろんな方向に手を伸ばしているうちに最終的に残ったのが肉と電化製品だったのだろうとのことでした。
野田村と久慈市は隣接しているのですが、久慈には「ヤマダ電機」や「K’s電機」といった量販店が並んでいます。そういったチェーン店と比較してどのような経営をしてどのような役割を担っているのだろうかと疑問に思った私は、野田村に他に電化製品を売る店があるかを北末さんに尋ねました。
すると、中野電機さんがあると教えて下さりそちらへもお邪魔しました。
そちらは北末電機さんとは異なり電化製品を専門とした店なのですが、店構えも小ぶりで同じく店内に電化製品はほとんどありません。
店に商品がない状態でいったいどうやって生業を行っているのかと思っていたのですが、電化製品というものは一般に幅をとり、またどんどん新しい種類が増えて型も変わってゆくためお客さんから注文されてから発注するそうです。
これなら売れなくていつまでも店に置いておかなくてはならないということにもなりませんし、カタログだけ置いておけばいいので店のスペースもとりません。商品は注文すれば翌日には届くそうです。
現物を見て判断できないためネット通販に近い仕組みになりますが、客層が店の近くに住む年配の方がほとんどであるため疑問に思ったこと等を言えばその人に合った柔軟な対応をしている様子でそういったことが支持されているのでしょう。
お話を伺っている間にも仮設住宅から「テレビをぶつけてしまって動かないんだけど。」と電話がかかってきたのですが、仮設住宅のテレビは行政が無料で配置したものなので「俺に頼んでもいいけど役所に頼んだらタダで直してくれるんじゃないか。」と儲け度外視のアドバイスをするなど、人と人とのつながりが大切にされているのだと感じました。
このような街にある小さなお店が大型量販店と同じ土俵に立てば品揃え、価格どちらにおいても対抗することは並大抵のことではありません。
そうなれば、無理に同じ土俵で勝負をするのではなく大型店にはできない違う角度から顧客を集める方が効率のよいやり方と言えるでしょう。
思えば私の地元にも小さな電気店があったのですが、気づけば空き店舗になっていましたし、地域住民とお店とのつながりが都市部よりも強い地方の方がこういった商店は営業しやすいのかもしれません。
現地に来るからわかること
遠野到着4日目にしてボランティアに初参加となりました。今日は大槌町の宅地跡の清掃活動です。作業場所はニュースなどでも話題となった、「はまゆり」という船が津波によって屋上に乗った建物がある赤浜です。現在、あの船は撤去され建物だけが残っています。しかし東日本大震災の記憶を残すため、再現保存をすることを赤浜住民の方々は希望されています。
赤浜住民の方々の願いが書かれた看板。そしてその奥が実際の建物。
JR釜石から赤浜に着くまでの移動中、景色は一変しました。赤浜に近づくにつれ建物といえるものは少なくなり、着いた時、そこにあるものは家が建っていた跡、かろうじて残った鉄筋コンクリートの建物のみでした。テレビやインターネットで見る被害状況で、被害者数は知っているはず、被災地の様子は知っていたはずなのです。しかし、実際に現場を見ると違った感覚が押し寄せてきました。ニュースやインターネットでは1つの情報を深く、またたくさんの情報を短時間で得ることができます。しかし、「感じる」ということができません。私は今まで情報を得ていただけ、その街の雰囲気、街の色を感じていなかったことに気がつきました。本当に被災地を理解することは数字を知ること、映像を見ることだけではないと実感しました。
赤浜の風景。家は流され跡だけが残る家が多い。
作業は瓦やガラス片、コンクリートなどを拾い集めるものでした。スコップで土を掘り返せば掘り返すほど、名札やビデオテープ、おもちゃなど様々なものが出てきます。壁も柱も無く、あるのは家が建っていたのであろう跡、そしてボロボロになった鉄筋コンクリートの建物ぐらいです。しかし今でもそこには人が生活し、思い出を作った跡が残っていました。被災地の状況を写真で見た感想として、「なにもない、全て失った」などの言葉をよく耳にします。しかし今日私は何もないのではないと思いました。そこに住んでいた人々にわかる、どこか思い出を蘇らせる何かがまだ残っているのではないかと思います。だからこの街から離れたくないという方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
赤浜には最近1軒の喫茶店がオープンしました。名前は「チロリン村 ぽんた」。店主の方は仮設住宅で暮らしながら、お店まで通っています。短い時間でしたが、津波が起こった時、また4日目に自衛隊に発見される時までのことを詳しく話してくださいました。ここまで詳しい話を聞いたことがなく、ただ驚きました。最後に店主の方が「皆さんにありがとうと伝えたい」とおっしゃっていました。この「チロリン村 ぽんた」に関しては、今後詳しくブログを書きたいと思っていますので、ぜひ皆さんに読んでいただけたら嬉しいです。
「チロリン村 ぽんた」3月赤浜にオープンしたばかりの喫茶店。
いよいよ始まりました!感じたことを皆さんに届けたいと思います。よろしくお願いします!
3月5日~7日 -現地から若者へのメッセージ
3月5日、6日は阿部農縁さんでお手伝いです!
阿部農縁さんは大正時代から受け継がれ、今は4代目の寺山佐智子さんが代表を務める歴史ある農家さんです。東日本大震災での風評被害から、代々受け継がれてきた畑を守ろうと頑張っている農家さんの1つです。
両日、なんと雪が積もり、雨が降っていました。大阪ではなかなか見られないほどの積雪で、外では作業ができないので屋内で活動しました。私は阿部農縁3代目にあたる阿部正子さんとご一緒させていただいて、出荷用の商品を容器に入れ、用意をする作業をさせていただきました。この2日間では福神漬け、大葉味噌、パリパリ大根などの出荷のための袋詰め、そして阿部農縁でお勤めの皆さんのお昼ご飯作りなどをお手伝いしました。
皆さん、とても明るく優しい方達で毎日が楽しく、震災後の被害にも負けずとても前向きに農業に励んでいらっしゃいます。農園で採れた野菜を使ったお昼ご飯はとても美味しいです!
そして3月7日は阿部農縁の寺山さんに勧められ、ある会合のモーニングセミナーに行かせていただきました。そのセミナーには様々な企業の方達が来られており、お話を伺える機会がたくさんありました。私たちの活動の趣旨を伝えると、皆さんは快く震災に関するお話をしていただきました。
―ある女性の方によるお話
東日本大震災後の昨年のある日、東京で電車に乗ると「福島第一原子力発電所の水素爆発の影響により、今年の東京は暗い」という掲示が目に入った。私達(福島県民)は東北電力の事業地域であり、東京電力の電力を一切受け取っておらず、関東地方のために電力を送ってきたようなものなのに「福島のせいだ」と言っているような書き方をされるなど、関東地方にまで風評被害を被るなんて……それに対して非常に怒りと憤りを感じた。しかし、だからといって今まで私達は原子力発電所を持つ地域の住民として、原発に関することを何も知ろうとしなかったし、「安全」について何もやろうとしなかった。だから悔しい…そういう意味でも、住民の私達にも責任があるんだ…。
今回の震災で、原発の問題に留まらず、日本の行政や地方自治体などの様々な危機管理体制や危機管理に関するシステムの姿が顕著になった。私達ではもうどうにもできないこともあるが、若い人なら今からでもできることがたくさんある。今回の震災で分かったことを、これからの日本を担う若い人たちに託したい。今までの日本のシステムは本当に良かったのか…を改めて考えてほしい。自分の生き方、考え方をしっかり持ち、ふらつかないように生きていってほしい(自分の利益や欲だけを追求するためにではなく…)。原子力発電のような近年人間が新しく作り出したものを、また新しくやり直していってほしい。
…と、目に涙を浮かばせながらおっしゃられていました。私達に懸命に思いを訴えかけているその姿と涙に、私も思わず涙ぐみました。
この貴重なお話を聞かせていただいて、改めて私達の年代がこれからの日本を創り上げるんだ、みんなを支えていくんだ、同じような被害は二度と繰り返さないようにすべきだと自覚できました。また、このような現地の方々の思いを真剣に受け止め、社会安全学部生としてもこの震災での教訓や現地の方のメッセージをできるだけ多くの方に伝え、知っていただきたいし、これからの自身の勉学や様々な活動にも反映させていきたいと思いました。
遠野市役所 文化の復興を目指して(2)
遠野文化研究センターはもともと遠野の文化を調査、研究、発信するために設けられました。しかし、東日本大震災後には海岸沿いの三陸地方への支援を精力的に行っておられます。
文化財レスキュー活動は津波の被害に遭った議会資料、新聞スクラップなどを大槌町立図書館からあずかり、様々な方々から教わった知識や技術を生かして修復が行われていました。中でも印象に残ったのはスクウェルチ・パッキング法でした。資料の水分を取るために数ページごとにキッチンペーパーで挟んだ新聞紙をはさみ、布団圧縮袋に入れて掃除機で空気を抜くという作業を3回程繰り返します。資料の修復の1つの段階であると同時に、この方法によって資料に生えたカビの進行を抑えられます。私は様々な方法で資料を守れること、自分の身近にあったものがこのような場面で役立つということに驚き、感心もしました。他にも破れたり穴が開いたりした資料の補修やその後資料を洗浄後に乾かすための大きな扇風機など、いろんな驚きや発見がありました。そしてなにより、このような方法を伝えようとした方々や試行錯誤をされた方々の思いに触れたようで温かい気持ちになりました。
また、献本活動では全国から送られてくる書籍を、本を必要としている小中学校や図書館に送っておられます。流れとしては送られてきた書籍の受付、選別、入力、ラベル貼り、箱詰め、保管を経て受け入れ準備の整ったところへ配本が行われます。選別では登録できる本とできない本とに分けます。この選別によって献本活動により提供できる書籍の質が上がる、大切な作業とのことでした。
データ入力では一冊ごとにだれが送ってくださったかまでを登録します。ラベルを貼ったあとは、市役所とは別の場所にある大きな倉庫を書庫にして保管しています。作業をされているお部屋には寄贈先の学校からの感謝の色紙やボランティアさんからの手紙などがありました。現在までに約26万冊、最大で1日492箱ものダンボールが送られてくることもあったとか。大切なことは、“読んでほしい“と思うような書籍を贈る。ということでした。たくさんのダンボールを空けても、募集していない雑誌、ラインが引かれた書籍、カバーがない書籍など寄贈には使えない書籍がたくさん。加えて、古い百科事典や自然科学分野の書籍は時を経ると内容が古くなってしまいます。「いらなければ捨ててください」とメッセージが入っていることもあるそうです。捨てる、ということがどれだけの労力になり、手間になるのか、書籍がどれだけ重いのか。私はお話を聞いて「捨ててください。」と送ってくださる方の思いも本当で、ただ現地では量が多くなるほどに対応に精一杯で。どちらも思いも真っ当なだけに、歯がゆくなりました。
さて、どうして遠野がこのように沿岸部の復旧・復興を支援しているのでしょうか。それは遠野は古くから三陸沿岸部と内陸部をつなぐ交通・流通の要衝として栄え、三陸沿岸と文化的なつながりが強くあったという背景があります。まず災害直後には衣食住の回復が必要でした。遠野文化研究センターでは、その後の生活における文化の復興のお手伝いとして、これらの活動による文化的な支援を行っています。三陸地方から遠野の仮設住宅にやってきた方々もたくさんいます。
この日、実際に被災された臨時職員の方ともお話をすることができました。
実際に家が流されてしまったこと。現在仮設住宅に住んでいること。阪神・淡路大震災も経験したこと。それから安否情報のお話や親族の方々についてのお話も少しずつではありましたが聞くことができました。学部で学んだことに現地でも触れることができ、被災されていた方々が私の思っていたよりも様々なお話をしてくださいました。その経験を聞いても私にはなにもコメントすることができないかもしれません。しかし、自らの経験を話してくださいます。それは今、このタイミングでこの場所で出会うことができ、お話しできた、という当たり前だと思えばそれだけで終わってしまうようなことの上に在る、ということに気が付くことができました。
(写真2)スクウェルチ・パッキング法。あなたの家にもある掃除機が登場します。
(写真3)エタノールを噴霧した後、紙が破れないように網、不織布で挟み込みます。それを水を張ったバットに浮かべた板の上でハケで泥砂を除去します。
(写真4)資料の水気をある程度ペット用のタオルでとった後、反ったりしないようにろ紙やダンボールに挟みながら夏は数時間、冬は1日扇風機にかけ乾燥させます。

(写真5)泥をとり、新しいスクラップブックに貼り替えます。1枚ずつ手作業です。
(写真6)全国から送られてきた書籍です。ピーク時はもっとたくさんでした。
(写真7)お手紙も届いており、寄せ書きも飾られています。
遠野市役所 文化の復興を目指して
岩手での滞在3日目にして初のボランティア活動を行いました。初めてのことばかりで、とにかくわくわく、どきどき。初日の今日は遠野の市役所で行われている活動に参加させて頂きました。この市役所も実際に地震による被害を受けたこと、現在は別の場所にも市役所が置かれているのだと職員の方に教えていただき、地震の爪痕にただ大きな驚きを覚えました。受けた被害は尾を引いているのだということも少し感じられました。
三陸文化復興プロジェクト
この市役所では遠野文化研究センターにより、三陸文化復興プロジェクトという文化の復興への支援が行われています。2011年6月12日から始まり、たくさんのボランティアの方々と共に活動が行われています。このプロジェクトは2つの活動からなっています。
まず、全国から送られてくる書籍の受付、選別、登録、ラベル貼り、保管、配本を行う、献本活動。そして津波によって泥などが付着してしまった、町議会資料や郷土資料、地域新聞のスクラップブックなどを乾かしたり、泥、砂を取り除いたりといった修復を行う文化財レスキュー活動です。
その場でいずれかの活動に振り分けられ、私たちは文化財レスキュー活動の新聞のスクラップの貼り替え作業に参加しました。この日はたまたま参加人数が少なく、その分職員の方やこの地域に在住のボランティアの方ともたくさんお話をすることができました。職員の方々にはこの三陸文化復興プロジェクトに関するお話として活動内容だけでなく、感じたことなどもお話していただけました。
詳しくは3月6日遠野市役所にて(2)に続きます!
作業現場の市役所の東館。もともとは中央に渡り廊下があったが地震によって中央館が全壊認定を受け、取り壊されました。














