7月
9

地域に元気を う~のはまなす商店街

更新が大変遅くなり申し訳ありません。

私は約三週間岩手県で活動していました。前半は遠野まごころネットさんにお世話になり、陸前高田で杉の木の皮むき作業などをしていました。

後半は釜石市鵜住居地区にある仮設商店街「う~のはまなす商店街」の“あづまっぺカフェ”で活動をさせていただきました。

そこで私がお世話になっていたのがねおすさん。

自然と社会との心地よい関係(人・地域)づくりに貢献し、自然体験文化を育てていく北海道の「NPO法人 ねおす」のことです。

ねおすさんは震災後、釜石市鵜住居・箱崎・片岸・栗林・橋野地区を中心に支援活動を継続されています。

鵜住居地区にあるう~のはまなす商店街には、カフェ、花屋さん、パン屋さん、定食屋(酒屋)さん、商店さん、散髪屋さんと色々なお店が入っています。

写真1 う-のはまなす商店街

はまなす商店街には、北海道から来ているねおすの一員であり、商店街の裏で放課後こども教室を開いて子供達に勉強や遊びを教える有原賢治さんという方がいます。(アリケンさんと呼ばれている)

私が鵜住居に入った一日目は、僕達を受け入れてくださったアリケンさんが、この地域はどういう所か、どういう被害があったのか知ってもらわなきゃ意味がないということで、ボランティアのためのボランティアツアーに連れて行ってくれました。

まず、釜石地域の震災前後の様子をYoutubeの映像で見たあと、それと同じコースをワゴン車「ディズニー号」でまわりました。

写真2

写真2は途中に休憩で寄った大槌にある、大型のショッピングモール「マスト」です。

中のお店の店員さんに聞いたところ、このマストは被災後約9カ月で運営再開したそうです。この時期はまだスーパーと言われるほどのお店はまだなかったようです。この状況下で再開できたのは、町民が要望書を集め県に提出し、早期再開が決定されたからだそうです。生活用品、食材、衣類など幅広く取り扱うマストは団体のお客様、老人ホームの方々など多くの人が助かっています。しかしその反面、震災一年後くらいからは仮設の商店街などが各地域ででき、その小規模のお店からすれば大型のスーパーなどに客が集まり苦労することになります。

写真3 三陸の奇跡 釜石東中学校と鵜住居小学校

写真3の小学校と中学校には津波が校舎の三階まで達しました。地震発生後、中学校職員・生徒がすぐさま避難、それを見た小学校の職員・生徒も避難。まさに避難が避難を呼びかけた「三陸の奇跡」。その日学校を欠席・早退した生徒は助からなかったそうです…。

さらに避難した彼らは六日前に開通したばかりの高速道路「釜石山田道路」に辿り着きました。そこをたまたま通った数台のトラックに乗り込み、市内の体育館に避難することができたそうです。この道路は後に「命の道路」とよばれるようになりました。

このボラツアーの途中にアリケンさんが、「阪神・淡路の時は今回よりも早く次の建設、土地利用と進んでいったが、この東北の津波の爪痕は現在進行形で継続的に見ることができる。その一つ一つの瞬間をできるだけ多くの人たちに見てほしい」と言っていました。

私は震災が発生して間もないころの状況をテレビや新聞で読み聞きしていました。実際東北に入ったのが、震災から半年後に宮城、そして11ヵ月後に岩手です。確かに瓦礫の多さや道路などは良くなっています。でも仕事が失った人、仮設での生活、被災地域の土地利用など、命は助かったがその後の経済面、おもに生活していく上での問題が浮き彫りになってきました。私達が生きている間に東日本大震災規模の地震・津波が全国どこで何時起こるかわかりません。今の東北の復旧・復興過程を見て聞いて感じることはとても重要だと思います。

ここで「う~のはまなす商店街」のお店の運営状況、またお店が抱えている問題など聞き取り調査したことをかいていきます。

まず僕が主に活動させていただいた、「あづまっぺカフェ」。

地元の“山のお母さん”達と、アリケンさんと同じく北海道から来て修行しているJOYさんこと柏崎未来さんが運営しています。

このカフェは店内のメニューはもちろん、店外(商店街内)からのメニューも注文し、カフェ内で食すことができます。

毎週水曜日は「峠の茶屋」として山のお母さん達が地元の山菜を使う郷土料理を出しています。

看板メニューであるあづまっぺ弁当は目でも舌でも満足でき大変人気です!

一方で接客する店員がボランティアで、長期休暇を利用して来る学生ボランティアが主に来ているが春休み後はボランティアが激減して運営がとても難しくなったりと不安定な一面も抱えています。

次にパン屋の「あんでるせん」さん。

写真4 あんでるせんのお父さんとお母さん

ふわふわでめっちゃ美味しいパンで、休憩で寄るボランティアや工事の人たちに人気のパン屋さんです。特にフランクドーナツは男性にもってこいで即完売必至です!!!

僕のようなボランティアからすれば人気があって問題なさそう。と思ってしまいがちですが、津波によって機械が流されて、作ることのできるパンの種類が限られているのです。

以前常連だったお客さんも被災し、各地離れたバラバラの仮設住宅に行ってしまいました。

雇用しようにも先の見えない不安定な状況であるため新たに従業員を雇えないというのが現状です。

食材、菓子類を販売している寺前商店ののり子さんは将来への不安から商売を続けるか迷っていると言っていました。「津波に家も流されて、店も辞めたら逃げている。まだ小さいお子さんが三人もおり、その子たちのために頑張らないといけない。それに故郷を捨てていいのか。」という考えと、「また来るかもしれない津波に対する不安」という中での葛藤。でも、苦しいのは自分だけでなく、周りには自分より苦しんでいる人はたくさんいる。命があった自分たちは頑張らないと過去には戻れない、今はできることをやるしかない。と奮闘しています。

商店街で様々なイベントを行うに当たって、近にあるいくつかの仮設住宅にポスティングを一緒にしました。

私自身初めて仮設住宅に行ったのですが、なんというか明るい人と、閉じこもってしまっている人の差に衝撃を受けました。新潟の中越地震の際は、集落ごとで同じ仮設にはいることがわりと多く、仮設でのコミュニティづくりにあまり苦労しなかったと聞きました。今回の震災の場合は、本当にバラバラに仮設に入り、コミュニティづくりに苦労しているそうです。全員が閉じこもっているわけでなく、僕がポスティングしにあいさつに行くと、外にまで出てきてくれて、「大変やね~ありがとうね~」って明るく声をかけてくれる人もいっぱいいました。でも一部の人は、玄関が二重になっているのですが、外側はのれんなどで完全に見えないようになっており、中に入ると、酒やゴミでいっぱいで、臭いも正直きつい状態でした。ではなぜ閉じこもっているのか。それぞれ仕事を失った人や、近隣とコミュニケーションをとるのが苦手など理由は様々あると思います。

でも地域の人の元気なくして地域の復興はありえない!このような人たちにもぜひ商店街に来てもらえるように、商店街の人とボランティアが協力して様々なイベントを考えています!!ボランティアが主役ではなく、地域の人たちが主役でその人たちに、自分たちを必要としている、やらなきゃいけないという役割を与えることができるようなイベントを考えないといけないと思いました。

私の活動期間中に震災から一年を迎える前日2012.3.10に商店街ではキャンドルナイトイベントを行いました。私たちはねおすの方々と一緒にその準備に取り掛かってていて、震災一年を迎えるにあたり、地域の人々が集まりそれぞれが考え、話す場を提供するということを目的としました。そこで、静かすぎず、だからといって祭りのようににぎやかなものにもならないよう色々苦労しました。そこで実施されたのがキャンドルイベントでした。

写真5 キャンドルイベント

このキャンドルイベントは規模は決して大きくはないですが、来てくれた方一人ひとりがキャンドルグラスを置き、それぞれの想いを心に祈っている姿を見て、このイベントを行って良かったと思いました。静かに祈った後は、みなさん当時のことや今の様子などを互いに話し合っていました。

ちなみにこのイベントに使用されたキャンドルグラスを提供してくださったのは北海道のサッポロビールさん!200~300個ものキャンドルグラスを提供してくれました!!企業も何らかの形で支援してくれていることに感謝!!です。

僕は約三週間岩手で活動しましたが、関西でたまに見る東北の「様子」と実際に自分の目でみる東北の「現状」は全く違いました。僕は地震のこと、津波のことなどまだまだ勉強不足で難しくわからないことも多いですが、東北の人たちは本当に純粋に、日本全国からきてくれるボランティアでも観光の人でも、とにかく来てくれることにすごく力をもらい喜んでくれます。それだけはわかります。

ボランティアの需要も当時に比べると確かに減っては来ていますが、ボランティアの形態も変わりつつ、まだ需要はあります。震災当初は主に瓦礫の撤去作業、私が東北に行った時期は冬だったので雪かきなど季節によっても変わります。今は瓦礫撤去作業は無いと思われがちですが、機械などでは撤去し切る事ができない細かく小さなゴミや瓦礫を撤去するボランティアもあります。また、各地で色んなお店ができてきて、様々なイベントがありそのお手伝いのボランティアもあります。長期休暇を利用してでも、ちょっとした旅行でもとにかく自分の目で一度現地を見てほしいです。

4月
7

被災の手当はだれに必要なのか

東日本大震災の影響で失業してしまった人への失業手当。

一口に「失業」といっても、その中には家族を養うために絶対に働かなければならない状況にある人、お小遣い稼ぎのようにパートに出ていた人も含まれています。その前者、後者ともに失業保険の対象となっています。

「震災の影響で『何人』の失業者が出ています」という情報がメディアで流されていますが、本当に困っている人はそのうち「何%」の人でしょうか。

 

東日本大震災によって自宅が全壊してしまった人への手当て「150万円」。

この金額は安いと感じるでしょうか。それとも十分だと感じるでしょうか。これは「自宅」が全壊した人への手当ての金額です。立派な一戸建てを構えていた人も、小さなアパートを借りていた人も、岩手県の生活再建支援法では全壊世帯に対して100万円が支給され、その後賃貸住宅に暮らしている人に対してはさらに50万円が追加支給されます。このように一律に扱われる理由は、この制度が損失を補償する制度ではなく、「居住安定」つまり、住まいを失ったということに関して、住まいをあらたに確保するための支援という位置づけだからです。一戸建てを構えていた人にとっては、その金額に対しても、金額が一律であることに対しても不満がたまっています。

 

3月8日に岩手県大船渡市にある「有限会社ラボ・オーフナト」の工場長の星拓也さんにお話を伺いました。星さんは、もともと被災前は陸前高田市で縫製工場の経営をされていたのですが、工場が津波の被害にあい全壊してしまい、紆余曲折を経て現在の職に就かれました。

 有限会社ラボ・オーフナトのみなさん。向かって一番左が星さん。

 

2011年3月11日、星さんは、製品の納品のため会社のある陸前高田市から宮城県に車で向かっている道中に、地震に遭いました。異変を感じた星さんは自分の工場に引き返すことにしました。普段使う海沿いのルートは道路が封鎖されていたため、内陸のルートに変更しましたが、工場に戻ることを諦め途中にある自宅に一旦戻りました。そこで、陸前高田市にも津波の被害が出ていることを知りました。ただその時は「ひどくても床上浸水しているくらいだろう。機械は無事だろうか。」と考えていたそうです。

次の日の朝、山を越えていくルートに変更して陸前高田に向かいました。そして、従業員の安否を確認するため各地の避難所を奔走し、2週間かけて全従業員26名中24名の無事を確認できました。しかし、残念ながら後に2名が犠牲になってしまったことを知りました。また、会社には地震から4日後に行きましたが、基礎とポーチを残して床から上がすべて流されてしまっていました。

避難所にいる限り食料などには困らないと考えた星さんは、会社の従業員は全員女性であることも考慮して、「必需品だが優先順位が一番後回しになってしまうだろう」と考えられるもの、ハンドクリームやリップクリームなど軽い化粧品類を従業員のためにたくさん買って届けました。東京や香港や韓国の子会社からもたくさんの支援物資が送られてきて、星さんが各避難所に配りました。

 

自身も被災者でありながら、他の多くの被災者の支援にもまわられた星さんは、失業手当に対して疑問を持たれています。

手当ての金額が元々の給料より多いことや、病院や薬にかかる費用の無償化や、手当の期間が延長されることなどから、働く必要がないと考えてしまう人が多く出てきてしまい、働く人口がなかなか増えません。働く人口が増えないとまちの復旧・復興はかないません。まちが復興しないと職の口は増えず、人口が流出して過疎化が進み、まちが死んでいってしまうという悪循環に陥ります。そこで星さんは、手当ての待遇を見直し、一人ひとりに合った保障をすることが必要だと言っておられました。

また、行政の一律の対応は働ける人の就業を妨げている可能性もあります。働くことが難しい高齢者と、20代の若者の待遇が一緒だと、この若者に対しては対応が厚すぎると考えられます。

 

人それぞれに、おかれた状況は違うのです。

すべての人に一律な対応をすることは、一見平等であるように見えますが、それは公平ではないように思います。そうかと言って、このような大災害の何万人単位の被災者に対して一人ひとりに個別の対応をすることはできないですから、せめてもう少し括りを細分化するべきです。たとえば、生活再建支援法での「住まいをあらたに確保するための支援」という名目で支給される金額は、震災で0の状態になった人が1からスタートすることに対しての一律の保障ですが、元々の生活水準が違うのですから、よりよい生活をしていた人が不公平に感じてしまうのは当たり前のことです。「一戸建てを持つとバカを見るから賃貸に住みなさい」とローンを払い終えたマイホームで暮らしていた被災者の方に勧められた時には、その気持ちは察するに余りあると感じました。もとの住まいを考慮に入れた保障をすべきです。

 

政府は、不公平だと被災者が感じてしまうような対応を減らし、気持ちの面でも「また立ち上がろう」と思えるような保障を新たに打ち出すべきです。経済的な面でも、就業を促し、また雇用を増やす方策が必要です。

保障が手厚すぎても手薄すぎても、復旧・復興の妨げになるということを学びました。

4月
4

道の駅おおののあり方

道の駅おおのは、JR久慈駅からバスで40分ぐらいのところにあります。

(写真1)

ここは、道の駅といっても、すごく大きな施設です。宿泊施設や天文台や馬やアヒル、羊などの動物と触れ合うことができます。また一番の特徴は、木工房、陶芸工房、ガラス工房、裂き織り工房といった体験施設が充実していることです。よく小学校などの遠足などで利用されることも多いそうです。 木工体験では、コースターやスプーンなどを木材で作る体験ができます。

(写真2)

大野木工とは、原木の木からお皿やお箸などの食器を手作りで職人さんが作られています。大野木工で作られた食器は、保育園などの給食の器として導入されており、盛岡では約3割の保育園が導入しているそうです。やはり木からできているため、落としても割れないので、安心して利用できます。私は、実際に木工食器を見せていただいて、すごく木の温もりを感じました。また一つ一つ手作りのため、木目が違っていたりして同じものはありません。だからこそ、一つ作るのにも大変で、職人さんにしかできない技だなと感じました。 裂き織り体験では、昔話の鶴の恩返しで出てきたようなはたおり機を使うことができます。なかなかできない体験だと感じました。裂き織りは大野に受け継がれてきた暮らしの知恵の一つで、古布をひものように裂いたものを横糸にして、織り直す織り方です。職人さんだと、かばんを織ったりしておられるそうです。 このような大野伝統の技術を生かした、体験施設を利用して人を呼んでいます。  またおおのは、「一人一芸の里」としても知られています。なぜ「一人一芸の里」と言われているのかと言うと、この道の駅おおののある洋野町では、一次産業が農業でした。しかし農業ではなかなか食べていけないため、都市部に移駐する人が多かった。そこで地域おこしをと「一人一芸の里」が掲げられ、一人に一つ何か芸を持とうと提案されたそうです。

 

そのひとつが、大野木工です。そして一人一芸をもち、そこから地域づくり、村づくりとして、大野木工や裂き織りを行い、またそれを観光客に体験してもらうことで商品化しようと体験施設がたてられました。体験を含めて産業化していこうとしているそうです。  体験施設だけでなく、産直があり地元の美味しいものもそろっていますし、なんと言っても名物の赤鳥ラーメンは最高に美味しかったです。

(写真3)

やはり冬にもっと楽しめるイベントを企画したりすることで、来客者も増やせると感じました。  しかしお客さんに来てもらうといっても、おおのは山の中ですし、車やバスなどが必要になります。しかしバスの本数が非常に少なく、土日はJR久慈駅からは一日に2本ぐらいしかありません。やはりまずは、交通面を改善すべきです。せめて土日だけでもシャトルバスを運行するなどの対策が必要です。

3月
20

『食』を通した観光のアプローチ

震災で被害を受けた三陸沿岸に人を呼ぼう!!、ということで、様々な取り組みが行われています。 

そのひとつが、「駅―1(エキイチ)グルメ」というものです。

もともと三陸沿岸は海の幸だらけで、その土地で何を食べたらよいのかが分かりませんでした。そのため貫牛さんをはじめとした有志の方たちが、地域の人たちと一緒にその地域に合うおすすめメニューを考え、商品化したものです。三陸沿岸の陸前高田から八戸まで、3県に跨って、23駅、30店が対象店舗です。

いわば食を通しての地域おこしと言えるでしょうか。もともと昨年からあった企画でしたが震災の影響を受け中断、今回第二弾として再開しました。

パンフレットパンフレット

今回は、そのうち2つを紹介したいと思います。

洋野町・種市駅の「はまなす亭 本店」は、天然ホヤが命のお店。もともとは海岸沿いに店を設けていましたが、今回の震災でお店が流されてしまいました。それでもなんとか営業を再開することができ、再びおいしいホヤ料理や、海鮮ラーメンを食べることができるようになりました。

もともとこの周辺は、稚ウニを飼育する、ウニ栽培漁業センターがありました。観光コースではセンターを見学し、ここのお店でご飯を食べる、というルートとなっていました。センターはまだ完全に復活していないので、いつかまた震災前と同じルートの旅行を復活することができたらよいな、と感じました。

 はまなす亭で提供される「庭のはまなす丼」。ホヤのから揚げが入っています。庭のはまなす丼

 もう一つは、久慈駅の「まめぶの家」。

そもそも、「まめぶ」をご存知でしょうか。「まめぶ」とは、久慈の郷土料理です。一見、すいとんのようですが、小麦粉で作った団子の中に、クルミが入っているのが最大の特徴です。一口食べるとクルミと砂糖の甘さが口の中に広がります。久慈市の旧山形村地域では、まめぶがお祝いの時に食べる料理として定着しています。

この料理は昨年のB-1グランプリにも出場し、知名度は年々上がっています。全国区に「まめぶ」の名が轟く日もそう遠い話ではないかもしれません。

まめぶ汁。まめぶが5個入っていて、あとは椎茸やニンジンなど。まめぶ汁

これは、岩手県中核観光コーディネーターの草野さんがおっしゃっていたことですが、三陸沿岸の北部は、景勝地を含む観光地、という魅力があります。しかし、南部は震災で被害を受けてしまったので、現在はそのような魅力がない状態になってしまっているとのことです。

それでも、三陸沿岸の北部と南部共通している魅力があります。それは、「食」の魅力です。

有名旅行雑誌の調査によると、旅行の目的は「食」と「温泉」が、上位2項目を占めているということです。つまり、美味しかったり、珍しいような「食」があれば、人を呼ぶことができるというわけなのです。

 

富士宮市の富士宮焼きそばみたく、「久慈と言えばまめぶ!」という風に売り込むことができたら、久慈へ来るきっかけができます。観光客の数も増え、地域経済も豊かになるでしょう。「食」を通した観光客へのアプローチ。十分成り立つと思います。

3月
17

野田村の人と人とのつながり

野田村はメインの通りが被災しており、仮設住宅も三か所に分けて作られています。私が訪れた仮設住宅の集会所では、5人の方がさをり織でコースターを作っておられました。

仮設の方が作られていたコースターコースター

これは売り上げの一部が、この作っている方々の利益になります。また、さをり織は青森の伝統のもので、さをり織をしている会社からの支援で、さをり織を教えてもらい、作られているそうです。みなさん丁寧に作られていて、前向きに楽しみながら作業されていました。

お昼には、最近仮設店舗にオープンした「十府ヶ浦食堂」に行きました。このお店は震災前、海岸沿いにあったためお店は流されたため、この仮設店舗に移られ、再開されたそうです。磯ラーメンを食べました。あっさりとしていて、塩ベースなので塩の味が効いていて、すごく美味しかったです。関西では絶対に食べられない味だと思いました。

磯ラーメン磯ラーメン

また米田さんという方が作られている豆腐もいただいたのですが、ふわふわで豆腐自体にすごく味があり、醤油なしでも美味しくいただけます。米田さんも震災によって、工場が被災し今は仮設店舗でとうふを作ったり、田楽を作ったりしておられます。

それからお顔見知りになった方にご一緒させていただき、キルトのお披露目に参加させていただきました。キルトは被災した方々が集まってみなさんで、分担して作られたものです。

キルト会のみなさんで作られたキルトキルト

このキルトは弘前から先生が来られて、教えてもらいながら作られたそうです。一つ一つ丁寧に縫われていて、とても素人の方が作ったようには思えませんでした。

私は支援というのは被災直後に食べ物や日用品を送ったり、瓦礫の撤去などのイメージが強かったです。しかし今回野田村に入り、被災後の復興中の過程を知りました。そのなかで弘前からキルトの先生が来て、被災した方にその技術を提供するといった支援は想像もつかないことでした。やはり被災してから時間が経つにつれて物資を送るとかではなく、被災者の方たちが自ら行動するための手助けとして技術者や指導者が必要なのだと思いました。

また、村自体の人と人とのつながりの深さに感激しました。野田村の米田地区では被災当初公会堂に避難していたそうです。すると被災していない山沿いの地域の方が、あるものを持ち寄りみんなにふるまったそうです。やはり人と人とのつながりが深いからできることであり、例えば大阪のように、その地区の人たち同士が顔も知らない人がいる環境ではできないことではないかと考えます。