3月
12

協力することの大切さ

あなたにとって一番大切な写真はなんですか?

その写真にはどんな思い出が詰まっていますか?

今日は大型スーパーの一角で行っていた写真返却展について書きたいと思います。

そこの写真返却展はある団体が大槌町内で拾得された写真やアルバムなどを展示し、持ち主に返却しています。写真は自衛隊、がれき撤去をしていたボランティア、解体業者などから届けられたものです。届けられた写真を名前が記載されているものは名前を一覧にし、あとはアルバム別やテーマ別(結婚式、卒業式、修学旅行、入学式など)に選別しています。返却時の写真の状態は町によってさまざまですが、大槌町の場合は、できるだけ早く持ち主に返すことが目的なので、見える程度まで洗浄できた状態で展示しています。

しかし、その土地で見つかったからといってその土地の人の写真かどうかはわかりません。津波で流されてきたものもあります。そのため、この写真返却展の広報活動は町内外で行っています。広報活動は仮設住宅でのビラ配り、大手スーパーでのビラの掲載などです。普段は写真目的のためだけに訪れる人が多いのですが、今回は展示会が最後ということで買い物目的のお客さんがふらっと立ち寄ることを目的とし、大型スーパーに出展したそうです。また、写真を受け取るのは本人でなければいけないという決まりはありません。1人の人が300以上もあるアルバムや写真の中から目的の写真を探し出すのは時間も体力も必要です。しかし、その家族、友人、知り合いなどみんなで協力すればそれを短縮することができる。これはこの写真返却に関してだけでなくこれからの復興にも共通する大切なことであると担当者の方は教えてくださりました。

「私たちがボランティアなどで復興の協力をすることはできますが、最終的にはその町に住んでいる人たちが頑張らないといけない。それは個人個人の努力だけではなくみんなが協力して助け合いのもとでこそ成り立つものである」と…どんな大きなことでもたくさんの人が力を合わせて協力すれば達成される。私はそう信じています。

 

思い出は人を強くさせるもの。

今回の震災で大切な思い出が流された方はたくさんいらっしゃいます。

そんな方に少しでも大切な思い出が戻るように心から願っています。

 

3月
11

人がいる、人が来ることの大切さ

東日本大震災から1年が経つこの日、私たちは岩手県釜石市箱崎町でボランティア活動を行いました。ボランティアの人数はやはりこの数日間で1番多く、ボランティア宿舎にも収まらない程でした。この日の作業は箱崎の学校のグラウンドの清掃です。学校のグラウンドといえば整備が施されているため平らで走りやすいのが私のイメージです。しかし、そこにあったのは、大きながれきは無いものの、生活用品や貝殻、ガラス片等の普通あるとは思えないものが、いくら掘っても出てくるグラウンドでした。その光景を見て1年前まで生徒たちが走り回っていた場所とは、私には思えませんでした。

 

グラウンドの状態。陶器、ガラス片、瓦等落ちているはずのないものが落ちている。

 

作業自体は14時に終了し、そこから私たちは地震発生時刻である14時46分が訪れるのを待っていました。すると少数ではありますが、この場所で暮らしていたと思われる方々が、住宅跡地の方へ行かれるのが見えました。震災から1年が経つ箱崎の地を見つめながら、何を思っていらっしゃるのでしょうか。一緒に来た人と話している人、ただ見つめている人。私にはその方々の気持ちを想像することしかできません。

 

箱崎町の宅地跡。奥の方は少し土地が高くなっているため、同じ町内でも被害が少ない。

 

その方々が自宅の跡を見つめる表情は1人1人異なっています。この場所での生活を思い返しているのか、少しやわらかい表情の方もいれば、悲しみで満ちた表情の方もいます。また、何かの決意をしているような表情の方もいました。震災前の生活、震災が起きてからのこの1年間が異なるため、表情が違うのは当たり前です。しかし、どの方からも、その表情の裏側に何かに対する「想い」を感じました。家族を想う、友人を想う、箱崎での生活を想う。その方向は違っても、愛する何かを想っているという点では、あの時間、皆さん同じだったのではないかと思います。

14時半頃、ある箱崎町民の方がお話をしてくださいました。私はその方がおっしゃったある言葉が印象に残りました。それは「今、大勢の方々が箱崎にいる光景を久々に見ることができて、とても嬉しく思います。」という言葉です。震災前、この街にもたくさんの方が暮らしていらっしゃったでしょう。今は震災の影響で人影が少なくなっています。

私たちは「東北に行くなら、ボランティア等をしなくては」と思いがちかもしれません。しかし、1年が経った今、ボランティアや観光に関わらず「人がこの場にいること」が大切なのではないかと思います。何も無い空き地でも、子供が集まって遊んでいれば、楽しい場所になるように、人が集まればその場所の雰囲気も変わるもの。人が集まるならば、「お店を出そう」など1歩前に踏み出そうと考える方もいらっしゃると思います。現地の方々の「キッカケ」がこの場所に私たちが来ることで生まれるかもしれません。そのキッカケを生み出すためにも、現地で誰よりも先に一歩を踏み出し、人が来ることができる準備を整える人が求められるのだと思います。

そして14時46分のサイレンが鳴り、ボランティア一同は海の方を向きながら黙祷。やっと1年経ったと思う人もいれば、もう1年も経ってしまったと思う人もいます。現地の方のお話を聞いているかぎりでは、後者の方が多い気がしました。生活そのものががらりと変わり、目まぐるしく過ぎて行った1年だったのではないかと思います。

復興計画が立てられ、ここからそれが具体化していき、何十年という長い年月をかけて街が復興していくでしょう。復興していく過程で、実際に目で見ることができる、また感じることができる震災が残した爪痕は、毎日少しずつ無くなっていきます。今日私たちが見た箱崎の光景や雰囲気を知っているのは私たちのようにその場にいた人間だけ。それは私の財産であり、またみんなで共有すべき情報です。関西に戻ったら、その情報を自分の周りの人に言葉で伝えることから始めようと思います。言葉にすることの難しさを東北に来て毎日感じます。言葉は大きな影響力を持つものでもあり、時に儚いものでもあるからです。しかし、まっすぐにこの震災と向き合い、その一言をみつけていきます。

3月
11

復興が終わる日

この日東日本大震災が発生してからちょうど一年がたちました。

この日僕は釜石市箱崎町にある学校のグラウンドの清掃作業に参加しました。海に近いこともありグラウンドにはかつて使われていたことであろう陶器の破片、ガラス、赤レンガ、木材、排水管の一部分などがグラウンドの上に転がっていたり埋まっていたりしていました。今回の活動はこれらを可燃物、金属、ガラス、赤レンガ、コンクリートに分別をして集めます。震災から一年の節目の年でもあり活動に参加している人の数もいつもより多かったような気がします。
清掃中に集めている瓦礫などを見ていると防波堤の一部と思われるコンクリートの塊が転がっていたり、津波の力を再認識させられるものがあちらこちらに見受けられることができました。 そしてこの日、作業自体は14時ごろに終了しました。 その後、地震の発生した14時46分に今回の震災で亡くなった方々に黙とうを捧げました。

津波によって倒された防波堤。

津波によって倒された防波堤防波堤

右端の車で防波堤の大きさが分かると思います。

津波によって流された宅地跡

津波によって流された宅地跡住宅地

活動を終えて遠野市に戻ったあと、住民の方のお話を聞くことができました。その方は「震災から一年がたったが、当時に比べて報道の数が減った。3月11日前後は多く報道されるがそれを終えるとまた報道の数が減る。」と仰っていましました。 震災から一年が経過しました。テレビなどの報道数も震災直後に比べて大きく減ってきました。東北から離れた地域で暮らしている人はテレビなどの情報でしか現地の様子を知ることができません。その報道では比較的復興の進んでいる所を取り上げることが多いです。

確かに仮設商店街など復興の兆しとなる施設ができてきています。しかしその報道だけを見るとどうしても復興が進んでいるのだと認識してしまいます。津波で流された住宅の跡地の清掃は人数にもよりますが一日に1軒~2軒が限界でした。この他にも海水で鉄筋が錆びてしまった建物の錆び取りや、カキ養殖のいかだつくりのお手伝いなど復興に向けてしなければならないことはまだまだあります。 震災が発生した当初よりメディアによる報道が減り、東北への関心も当初よりは低くなっていると思います。震災から一年を迎え瓦礫の問題、原発の問題など、復興に向けて自分達に何ができるのかを改めて考え直すべきではないかと思いました。

最後になりましたが復興とは何なのでしょうか?自分が思うにそれは現地の人たちが決めることだと思います。復興の意味は『いったん衰えたものが、再びもとの盛んな状態に返ること。』あります。震災前、現地の方々がどのような生活をしていたかは僕たちには分かりません。再びもとの盛んな状態になったかはその地域に暮らしている人にしか実感できないと思います。その地域に住む方々がそう実感できる日まで復興作業は続くのだと思いました。

大槌町の仮設商店街のお店

大槌町の仮設商店街のお店たこ焼き

3月
10

鵜(うーの)はまなす商店街‐つどいのひ

今日は鵜(うーの)!はまなす商店街で、「つどいのひ」を開催!!キャンドルを鵜(うーの)はまなす商店街の周辺から集ってくださった方々と並べていく。

 キャンドルはサッポロビールから提供して頂いたもの。その数400個!! 

昨日は「つどいのひ」の宣伝のため釜石町鵜住居地区の仮設へビラ配りに。せっかくなので、迷惑かなと思いつつ一軒づつ「はまなす商店街で~す!」と声かけしてのポスティング。

 扉が開いた!と思ったら、どこかで見た顔…寺前商店の店主さん!そのまた後ろから、ひょっこり顔を出してくれたのは、店主さんの娘さんたち!

 私が、はまなす商店街に来て、最初に仲良くなったのが、この3人姉妹。小1のお姉ちゃん先頭に4歳3歳とはまなす商店街中を元気に駆け回る3人は、この商店街の太陽的存在。震災後は、3人とも警報音がなると自分の大切なおもちゃと車のキーを持って身構えるようになったとお母さんは言う。お姉ちゃんが「お父さんひっぱって行くー!!」といえば、下の二人も「お父さんと行くー!!」とニコニコ笑顔。もう家族そろって参加決定やね。

そんなこんなで、ビラ配りを終えた昨日。頼もしいことに今日は都留文科大学災害ボランティアチームの大学生さんの応援もあって、キャンドルを並べる台紙もあっという間に完成。都留文のみんな、ありがとう!

 午後5時、つどいのひ開始。まだ人数も少ない中で、最初の一灯目を受けとって台紙に置いてくださったのは開始前から商店街で準備の様子を見ていて下さった1人のお母さん。

 昨日、配ったビラを見てきてくださったというのでお礼を言うと、亡くなった旦那さんのために祈りに来たことを話してくださった。「この灯は、お父さん。」と、やさしく微笑んでキャンドルに手を合わせるお母さん。

 大切な命を失った悔しさ、だからと言って泣いても始まらない切なさ、笑顔のお母さんにだって、急にさみしさが込み上げてくるときがあるのかもしれない。明確な答えがあるわけでなくとも、そのままではいられない。そんな複雑な思い。私にできたのは。入り混じる心境のなかで生まれる言葉の一つ一つにしっかり耳を傾けること。 

私に分かったのは。釜石に生きる人との繋がりが、釜石に訪れた人を明日も、何度も、もう一度来ようという意志を強めてくれること。 

お母さんとの縁に、私が今、この地にいる事の意味を改めて教えてもらった。

 それからは、キャンドルの1つ1つにも想いを込めて手渡しをするようになった私。空が暗くなると共に人も増え、キャンドルの周りは地元の人と釜石の外からやってきた人とが交じり合う、語らいの場になった。

 いつのまにか、商店街に集まった全員でキャンドルを囲んで、手をつなぐことになった。明日で震災からちょうど1年。抱く想いは違っても、明日への一歩はみんな一緒に進みたい。

 いわてあおもり復興協議会からの取材もあり、「ふるさとふれあいプロジェクト」のHP内にある『現地からのレポート』に、今日のことを載せてくださっている。

 今宵、鵜(う~の)はまなす商店街!に、つどって頂いた皆様。ありがとうございました。釜石・鵜住居は今日も元気。

背中姿は寺前商店の親子2人。

 

奥に写るのは、郷土料理研究会の政子さんとねおすの伊藤さん(宝来館の番頭!)。

3月
10

3月11日 農家民宿オープン! ―強さと生きる力

3月11日は阿部農縁の農家民宿がオープンする日です!

この日を迎えるために、3月9日、10日、東京大学生のボランティアさん達や寺山さんの娘さんも交えて私達は農園のお手伝いだけでなく民宿の改装のお手伝いもしました。特に民宿内の壁塗りは初めての体験で、とても印象に残っています!

壁塗りの様子

11日、農家民宿のオープン日では「民宿オープン内覧会」として、同じ農家仲間の森農園さんによるギター演奏や地元の方との餅つき大会、民宿でのカルタ大会などが催され、阿部農縁に関わる様々な世代、繋がりの方達とのふれあいがありました。皆さんとても楽しんでおられ、非常に盛り上がりました。

民宿でのふれあいふれ合い

また、14:46の東日本大震災発生時刻には参加者全員で黙とうし、亡くなった方々へのご冥福をお祈りしたと同時に今、生きていられていることへの感謝をしました。

 

寺山さんは震災発生当時、桃の摘蕾をしている中で被災されました。また福島第一原発の水素爆発による放射性物質などで不安な日々を送られ、一時は県外非難を考えられたらしいのですが放射線量が下がり、福島に踏みとどまることにしたらしいです。しかし、そこに風評被害という問題が寺山さんに突き付けられました。贈答用の桃から徐々に売れなくなり、売れ行きは震災前に比べて落ちたらしく、めげずに首都圏での復興イベントなどに出向いて直売を続けるも福島の桃だと知ると「検査済みですよ」と説明しても返す客がいたそう。「農産物を売り続けるために、ずっとこんな売り方をしなければいけないのか?福島という土地、農産物を理解する真のファンをじっくり作るためには、実際に福島にきていただいた方が良い」と、震災が発生した1年後にあたるこの日に農家民宿を始める決意をされたらしいです。「私達はここで生きている。思いを共存できる人と一緒に福島の自然・人・農業にふれあい、福島を楽しみたい。福島県に多くの人が来てこそ、本当の復興になるんだ。」と風評被害などの問題に負けず、むしろ跳ね返そうとしていらっしゃいます。

 

この日の寺山さんは1日中笑顔でいっぱいでした。阿部農縁を応援する地元の方、同じ農園仲間の方、様々なご縁で繋がった関東地方にお住まいの方や学生さんたち…たくさんの方に囲まれ、とても幸せそうでした。

ギター演奏においてギター演奏

まだ、私はたった1週間しか福島県に滞在していませんが、福島県の皆さんのたくさんの「強さ」を知りました。福島を愛し守り抜こうとする強さ、今まで人間が経験したことのなかった辛さや苦しみに立ち向かい跳ね返そうとする強さ、常に前向きに考え自分の人生をめいいっぱい楽しむ強さ。福島県の皆さんは自ら持っている様々な強さを味方に放射線問題、風評被害などに立ち向かっておられます。この様々な強さが今の福島の方々の生きる力となっているのだと考えます。このような福島県の方達と共に毎日過ごさせていただいてこちらも生きる力と元気をいただけ、同じ人間として学ぶこともたくさんあります。東北地方の復興を願い応援する全国の方にも是非福島を訪れ、生きる力を感じとっていただき、みんなで共に復興していけたら良いなと考えます。