3月3日~もぐらんぴあ・まちなか水族館~
もともとこのもぐらんぴあは、石油備蓄基地の作業用トンネルを利用した日本初の地下水族館としてオープンしました。しかし、今回の震災で建物が使えなくなり、久慈駅前に移転、まちなか水族館として営業をしています。
この水族館の特徴の一つが、震災を生き抜いた生き物が展示されていることです。
震災発生直後、職員の方は魚をとても気にかけていました。しかし発生直後は立ち入り制限がかかったりして、施設の周りに立ち入ることすらできませんでした。ようやく建物の周りに入れたのは2週間も後のことで、その時には既にナポレオンフィッシュやエイなど多くの魚が死んでしまっていました。それでも、奇跡的に生き残っていた20匹ほどの魚を八戸市の水族館が引き取ってくれて飼育してもらうこととなりました。
その後、疎開先で元気だったアメリカカブトガニとクサガメが久慈へ戻り、今、元気に飼育されています。
他にも、震災後この水族館には様々な支援がなされました。
例えば、もともと親交があったタレントのさかなクンが支援を申し出て、さかなクンが自宅で飼っていた生き物をこの水族館に寄贈してくれました。また、魚の紹介の絵は、さかなクンが書いた絵が飾られています。この水族館の応援団長、さかなクンは今でも年に何回かこの水族館を訪れて講演会をしています。本当にこの水族館のことが好きなのだろうなぁと思いました。
また、山形県の加茂水族館とも親交があり、クラゲを4種類譲り受けました。その中でもパラオのミズクラゲは珍しく、日本でも展示されている水族館はここを含めて2か所しかないそうです。このような珍しい魚が久慈にいるのも驚きましたが、同時に水族館同士のぬくもりや助け合いの精神を感じました。
そしてお客さんが多く来て、少しでも魚に興味を持ってもらうためにいろいろな工夫がなされているなと感じました。
例えば、久慈の川や沼で見ることのできる地元の魚の紹介であったり、キンヤドカリやヒトデ、ドクターフィッシュなど生き物に触れることのできるコーナーです。これらは種類が多く、かなり充実しているという印象を受けました。自分の手で触れるというのはとても魅力的だと思うので良い取り組みだなぁと感じました。
この水族館の特徴は、駅から近いというところにもあると考えます。
だから、例えば一週間に一日、金曜日は開業時間を延長し、会社帰りのサラリーマンにドクターフィッシュで癒してもらう・・・という企画があれば、より気軽に水族館に入ることができ、久慈の癒しスポットになるのではないかなぁと思いました。
3月2日~野田村・普代村~
この日は午後から野田村と普代村へ向かいました。
野田村は久慈市周辺の市町村の中では、一番津波の被害を受けたところです。震災前、沿岸部にはたくさんの住宅が建ち並んでいたようですが、現在はそのような光景は見られませんでした。住宅が残っている場所と更地になっている場所がはっきりしているので、津波がどこまで来たのかということもよくわかりました。また、堤防も破損しており、テトラポットも流された跡がありました。瓦礫撤去をして、更地になっている場所は、現在雪が積もって落ち着いていますが、その前は浜風によって巻き上がる砂埃がひどかったそうです。青森県の八戸市が野田村の瓦礫の処分受け入れ先として申し出てくれているそうです。各地で瓦礫の受け入れ先が決まらず、復興が遅れている状況で、八戸市のような市町村があることを知り少し安心しました。瓦礫の受け入れ先となる市町村が少しでも増えていくことを願っています。
野田村。津波の被害を受けた場所に雪が積もっていました。住宅の残っている場所との境目がくっきりとわかります。
野田村は塩づくりで有名な街で、昔から魚介類の保存などに塩がよく使われたそうです。しかし昭和24年の自給製塩廃止により、数百年以上続いた野田塩の歴史は幕を閉じることになったそうです。以来、絶えていた野田塩の歴史も、久慈広域観光協議会の貫牛さんが若いころ村の青年たちと一緒に復活させ、再び特産物となり継承されています。
昔、塩を牛の背に乗せて運んでいた。そのシーンを再現した石像。
石像の前には、観光に来た人たちによって復興へ向けたメッセージを書いた石が積まれていました。ぜひ多くの人が訪れて大きな石の山を作ってほしいと思いました。
また、野田村の村長は被災後半年ほどで、「いつまでも支援を受けていてはいけない。自分たちで復興へ向けて動き出そう。」という声を挙げたそうで、そうしたことが復興を早く進める鍵になっているのだと感じました。どのような組織でもこのようなことを言える人がリーダーになるべきだと思いました。
普代村には、河口付近に大きな水門がありました。
この水門があったおかげで普代村はほとんど被害がなく、死者数も0だったそうです。昔、水門を作る際、村民からはこのように大きな水門はいらないとの意見が多かったのですが、当時の村長さんが反対意見を押し切ってこの水門の建設をしたそうです。当時は費用がかかることでも、後に役に立つ。このような政策は難しいものだと思いました。
この日、久慈市周辺の沿岸部を一通り視察しましたが、被害を受けている場所と受けていない場所が疎らにあり、地形や防波堤の有無、住宅の位置などのさまざまな要因が関係しているようでした。
3月2日~久慈・小袖海岸~
お昼ご飯を食べた後、車で久慈市にある久慈・小袖海岸へ向かいました。
ここには舟渡海岸海水浴場があり、震災で大きな被害を受けました。しかしボランティアの手によってごみが片づけられて、ここは昨年の夏、岩手県内で唯一開くことができる海水浴場となりました。しかし今でも監視小屋が流された後をくっきりと見ることができますし、レストハウスは今でも営業を再開していません。震災の爪痕がくっきりと残っている姿は、とても生々しく映りました。
また、この近くでは「北限の海女」と呼ばれる海女さんが活動していて、海女さんはウニを採るため海の中へ7m近く、10分も潜ることができるそうです。観光客の前で素潜りを披露してくれることで人気がありました。
しかし、震災で建てたばかりの立派な海女センターの建物が全壊してしまいました。活動は絶望的と言われていた状況でも、わずかながら夏場に活動できたそうですが、今は冬場ということもあって海岸に活気はありませんでした。本格的な活動がいつ再開されるか分かりませんが、早く再開して三陸の観光の目玉イベントになって欲しいと思います。
久慈・小袖海岸は同時に三陸海岸で屈指の景勝地でもあります。
海岸沿いに数々の岩が並び、その光景はとても壮観です。その中でも「つりがね洞」や「兜岩」の奇岩は目を引くものがあります。この日はあいにくの曇天でしたが、晴天だったら綺麗な海と相まって素晴らしい風景だろうなあと思いました。
ところで、自分は真っ先に福井県の東尋坊を思い出しました。奇岩があり、海(太平洋と日本海の違いはありますが)が見える風景がとても似ていると感じたのです。しかし、東尋坊と違い、久慈・小袖海岸はあまり知られていないのが現実だと思います。
現状、お土産屋さんや食事店がない観光設備の状態を改善して、例えば湾内を運行する遊覧船を導入、奇岩を間近から見てもらう。このようなことをしたらもっと人が来て、注目が集まり、三陸の地域が活性化するのだろうなぁ、と感じました。
車窓からでしたが、久慈・小袖海岸を見てここは、震災復興後の三陸の一大観光地になり得る可能性を感じました。早く復興して、ここに人が集まって欲しいと思いました。
3月2日~お昼ご飯・道の駅~
今日は洋野町にある喜利屋というお店で昼食をとりました。洋野町は漁業で有名で、特にもぐり漁が盛んです。ウニやアワビやホヤといったものが養殖されています。洋野ではチリ地震の津波で死者が多数出ており、そこから対策をとっていたことや津波の教育をしっかりしていたおかげもあり、今回の東日本大震災では被害も比較的小さかったそうです。だからもぐり漁はもう再開されているそうです。
そこで、みんなでホヤの刺身をいただきました。みんなホヤを食べたのは初めてでした。ホヤは海水の味が強く、噛んでいくと苦みが出てきます。塩辛さはすごく好みだったのですが、あの噛んでいくほどに増していく、渋みはちょっと苦手だなと思いました。地元でもちょこちょこ苦手な方がいらっしゃると聞きましたが、名物になっているということは好きな方にはきっとたまらないのでしょう。
私はホヤの刺身といくら重をいただきました。とれたてなので普段食べているいくらより甘みがあり、すごく口のなかでプチプチとはじけました。本当においしかったです。これからもっと本格的に漁業が復興していくことで多くの方に新鮮な海産物を提供することができ、それを求めて人が来てくれることによって観光業ももっと発達していくと思いました。
また移動の途中に産地ふれあい広場センターという、地元でとれた野菜やお魚また地元の方が作っておられる郷土料理が売っていました。ここは地元の方も多く利用されていました。魚は、頭や内臓をとって日干しされていました。やはり魚が新鮮にとれる洋野町だからできることだと感じました。
もう一つは三陸鉄道の野田駅にある道の駅に行きました。ここでソフトクリームをいただきました。このソフトクリームは野田の特産品である野田塩と、ゆめ牛乳を使っています。特に夏には人気だそうです。濃厚でクリーミなのにさっぱりしていておいしかったです。野田塩は昔作られていたものが、規制を受け中止していたのを貫牛さんの提案でまた作られるようになったそうです。また郷土料理である田楽と串もちをいただきました。みその風味が香ばしくて、すごく美味しかったです。
たくさんの美味しいものに出会えました。これを一つの観光要素に取り入れ、グルメツアーを組んで観光客に来てもらうことで雇用も生まれ、また観光客の方は東日本大震災の怖さを実感できると思います。
3月2日~洋野町編~
本日は前回の記事でも書かせて頂いた「いわてあおもり復興応援協議会第二回商品化会議」において紹介されていた久慈市周辺湾岸部を、久慈広域観光協議会の水堀さんが案内してくださりました。
洋野町は漁業ではホヤやウニ、農業では寒さに強いホウレンソウや椎茸に力を入れており、それらに加えて牛を飼って酪農をする人もいます。漁業をする人は漁業だけ、農業をする人は農業だけ、という風に分けているわけではなくむしろ兼業で行う人も多くいるそうです。農業では兼業している人を割と見かけますが、漁業や酪農は農業よりもさらに専門性が高く専業のイメージがあったため意外でした。しかしこれらの職業は安定した収入を望める職種ではないため、いくつか行うことによってリスクを分散させているのかもしれません。
現在私たちが泊まらせて頂いている宿舎の周り(久慈駅周辺)はあまり地震や津波の被害を感じさせないのですが、久慈とほとんど目と鼻の先にある洋野町では、湾岸部ということもありポールが曲がっていたり、マツの木が枯れていたりと確かな被害状況が今なお残っていました。目を引いたのが住宅街の風景です。均したように平になっている土地がいくらか続いたかと思うと目立った傷のない住宅が並んでいる土地、その隣にはまた平地がしばらく続くという具合で上から見ればまだら模様になっているのではないかと思うような不思議な立地となっていました。大きな損傷もなく立っている家は真新しく丈夫にできていたのかと思い、水堀さんに尋ねてみると必ずしもそうではないらしく、同じ津波を浴びてもその土地によって波の角度が変わったため勢いもばらつき、それによって被害状況がまばらとなったそうです。
それからもう一つ考えさせられたのが水堀さんのお話です。漁師の方にとって船は生活の糧であり、そのため津波の警報が出た際、今後の生活を守るために沖の方まで船を持って行った方もいるそうです。沖の方まで持って行けば岸においているよりも少しぐらいは被害がましになるためですが、当然漁師の方のリスクは大きくなります。命をかけてでも守ろうという心意気なのです。
命がなによりも大切というのは当然のことですが、そこで助かったとしてもその後の生活が送れなくなってはどうにもなりません。
実際災害が起こった際に生き残ることができたとしても、その災害によって職を失って生活に困る人は多くいます。そういった兼ね合いが難しいと感じました。
洋野で訪れた「ウニ栽培センター」は津波で大きな被害を受け、現在は使用されていませんが大規模ウニ栽培施設であり、その全てを育てあげて売るわけではなく稚ウニの状態で他の地域へ販売するものもあるそうです。
【現在のウニ栽培センター】










