2012年3月 アーカイブ
3月
8

長部での4日間

ボランティア調査を開始して4日目になります!!3月1日から3月3日にかけて、陸前高田長部での杉の木の皮むき作業を主にやらせていただきました。

今回はそのことについて。。。

ボランティアの一日は朝7時40分からのラジオ体操、朝礼から始まります。

寒い中でのラジオ体操はめっちゃ気持ちいいんです(笑)

人とすれ違う度、「おはようございます」「よろしくお願いします」が当たり前。

みんな仲間であり、もはや家族ですね!!

 

杉の木の皮むき作業はその名の通り地道に皮むきしていくのですが、

これがまた手首、腰にきついんです。

 

ボランティア初日はもうクタクタでした….でも2,3日目になるとみんな慣れてくるんです。

3日目なんて物凄いスピードで仕上げていきましたよ!!それはやはりみんな協力がちゃんと出来ていたからだと思います。

この木を移動させたいと思う人が全員に協力を呼びかけ、すぐさまみんな駆けつけます。

 

自分たちが皮むきをした木が現地のおっちゃん達のプロの技術により製材所ができていきます。自分たちボランティアと現地の方々とのつながりが確かに実感できました。もちろんボランティアの方同士でも!!

利用される木は津波で海水を浴び、枯れてしまった木です。津波被害を受けダメになってしまったものなどが人の手によって、復旧・復興に少しずつ近づく新しいものを生み出していくのです。

帰る際に地元のおっちゃんたちが必ず「ありがとなあ!!」「またこいよー!!」って笑顔で言ってくれました。ほんの少し助けになれたかなと自分も笑顔になります。(笑)

 

写真1<製材所の建築途中>

 

 

今月の11日で東日本大震災から一年が経ちますが、メディアの報道はかなり少なくなってきました。原発の報道は比較的多いと思いますが…少なくなるのは、誤解を招くかもしれませんが当然なことだと思います。日本を含め世界中で色んな災害がおきているからだと考えています。

でも、東日本大震災が終結した、もう大丈夫だとは絶対に思わないでほしいです。僕は復興、というより復旧途中だと考えています。

 

まだまだ仮設住宅にすんでいられる方はたくさんいますし、瓦礫の片付けは進んでも、受け入れ先が決まらず、瓦礫の山が多く残っています。

<写真2>瓦礫の山

今の季節だと、津波でふたがなくなったマンホールが雪や瓦礫で隠れてしまっていて、落ちる危険などの二次災害も考えられます。

自分自身ここへ来て、現場を見るまでは正直かなり復興してきているんだろうと安易に考えていました。現状は違います。あと何年かかるかわかりません。 課題はあらゆるところに様々な形で存在します。

少しずつ、小さな地域でも素敵な人たちが、現地、そしてボランティアの人たちと協力して活動しています。

 

ブログの更新スピードが遅いですが、その分確実にそのような活動をどんどん載せていきます。よろしくお願いします。

3月
8

野田村での、或るお店の人との会話

この日は野田村の人に話を聞いてみることにして、村の中を歩き、気になったお店に入ってその人にお話を聞くことにしました。

いくつかのお店でお話を聞きましたが、その中でも僕が一番気になったお店は、野田村にある数少ない衣料品店の「中伊」さんです。

このお店は、震災が発生して、3階建てビルの1階、店舗部分に木材や泥が流れ込み、建物が流されることはなかったものの、とうてい営業はできない状態になってしまったそうです。

 

お店の正面。震災当日は1階部分がまるまる、ゴミで埋まってしまった。中伊

 

服はもちろん売れない状態となってしまい、ラックも海水が原因で錆びついて使えなくなりました。3月11日は入学シーズン直前で、それらの商品が大きい被害を受けてしまい、かなりの苦労があったそうです。

震災当初から、近所に住む人から「早く店を開けてほしい。」と要望がありましたが、お店は何から手を付けたらよいのか分からない状態で、元の状態に戻すのには時間がかかったそうです。それでもボランティアの支援もあり、ゆっくりですがゴミを片づけ、ラックを買い揃え、床や柱の壁紙やガラスを新しいものに取り換えたのち、7月に再オープンの運びとなりました。

 このお店の特徴は、フロアの中央に、大きなテーブルと、椅子が置かれていることです。

 

お店のちょうど真ん中ぐらいのところに置かれているテーブルと椅子。テーブルとイス

 

これらは震災前にはなかったもので、もちろん設置されたのには目的があります。

それは、このお店を単なる買い物の場ではなく、「憩いの場」にしたいから、という思いからです。買い物というより、地域の人とお茶を飲みながら、おしゃべりをする場所。時間つぶしなど、気軽に入ってきて欲しい場所としたかったのです。

このことを話されたとき、お店の方は、とても嬉しそうでした。実際、自分たちがこのお店に来た時も既にひとりの方と談笑をしており、野田村の「憩いの場」として、活用されているようでした。

 

しかしこのお店の方はこうも言っておられました。「道の前の街灯がなく、夕方や夜は暗くて寂しい。これじゃぁ夜、店に来る人はいない。」と。

たしかに、お店の前の道の街灯は数が少なく、ほかに営業している店や民家も少ないので、暗そうだな、という印象を持ちました。これでは人足が遠のくのも分かる気がします。

 

 店の前の道路。人はあまり歩いていません。夜はもっと減るのでしょう。

 

今まで街灯に注目したことはありませんでしたが、改めて新しく整備する道路に街灯の必要性を感じました。

そのためにも、復興計画の策定を急ぐべきだと考えます。野田村に限ったことではないですが、復興計画が決まっていない市町村は少なからずあります。区画整理や高台移転など決めなくてはならない課題は山積していますが、野田村が震災前の活気を取り戻すためにも一刻も早い策定が必要だな、と考えました。

3月
8

街の電気屋さんの在り方

街を探索しながらお店を巡ろうということで野田村へ行きました。

ぶらぶら歩いていると「電化製品 肉」という表示のある北末電化製品店を見つけました。肉と電化製品を一緒に売っているなんて珍しいということでお邪魔してみると電化製品はあまりなく、肉も豚肉が中心でそれほど多種を揃えている様子ではありませんでした。

話を伺うと、肉と電化製品を一緒に売っている状況は先代からのことなのでわからないそうですが、一つの業種ではなかなか稼げないためいろんな方向に手を伸ばしているうちに最終的に残ったのが肉と電化製品だったのだろうとのことでした。

野田村と久慈市は隣接しているのですが、久慈には「ヤマダ電機」や「K’s電機」といった量販店が並んでいます。そういったチェーン店と比較してどのような経営をしてどのような役割を担っているのだろうかと疑問に思った私は、野田村に他に電化製品を売る店があるかを北末さんに尋ねました。

すると、中野電機さんがあると教えて下さりそちらへもお邪魔しました。

そちらは北末電機さんとは異なり電化製品を専門とした店なのですが、店構えも小ぶりで同じく店内に電化製品はほとんどありません。

店に商品がない状態でいったいどうやって生業を行っているのかと思っていたのですが、電化製品というものは一般に幅をとり、またどんどん新しい種類が増えて型も変わってゆくためお客さんから注文されてから発注するそうです。

これなら売れなくていつまでも店に置いておかなくてはならないということにもなりませんし、カタログだけ置いておけばいいので店のスペースもとりません。商品は注文すれば翌日には届くそうです。

現物を見て判断できないためネット通販に近い仕組みになりますが、客層が店の近くに住む年配の方がほとんどであるため疑問に思ったこと等を言えばその人に合った柔軟な対応をしている様子でそういったことが支持されているのでしょう。

お話を伺っている間にも仮設住宅から「テレビをぶつけてしまって動かないんだけど。」と電話がかかってきたのですが、仮設住宅のテレビは行政が無料で配置したものなので「俺に頼んでもいいけど役所に頼んだらタダで直してくれるんじゃないか。」と儲け度外視のアドバイスをするなど、人と人とのつながりが大切にされているのだと感じました。

このような街にある小さなお店が大型量販店と同じ土俵に立てば品揃え、価格どちらにおいても対抗することは並大抵のことではありません。

そうなれば、無理に同じ土俵で勝負をするのではなく大型店にはできない違う角度から顧客を集める方が効率のよいやり方と言えるでしょう。

思えば私の地元にも小さな電気店があったのですが、気づけば空き店舗になっていましたし、地域住民とお店とのつながりが都市部よりも強い地方の方がこういった商店は営業しやすいのかもしれません。

 北末電機北末電機

3月
7

現地に来るからわかること

遠野到着4日目にしてボランティアに初参加となりました。今日は大槌町の宅地跡の清掃活動です。作業場所はニュースなどでも話題となった、「はまゆり」という船が津波によって屋上に乗った建物がある赤浜です。現在、あの船は撤去され建物だけが残っています。しかし東日本大震災の記憶を残すため、再現保存をすることを赤浜住民の方々は希望されています。

赤浜住民の方々の願いが書かれた看板。そしてその奥が実際の建物。

JR釜石から赤浜に着くまでの移動中、景色は一変しました。赤浜に近づくにつれ建物といえるものは少なくなり、着いた時、そこにあるものは家が建っていた跡、かろうじて残った鉄筋コンクリートの建物のみでした。テレビやインターネットで見る被害状況で、被害者数は知っているはず、被災地の様子は知っていたはずなのです。しかし、実際に現場を見ると違った感覚が押し寄せてきました。ニュースやインターネットでは1つの情報を深く、またたくさんの情報を短時間で得ることができます。しかし、「感じる」ということができません。私は今まで情報を得ていただけ、その街の雰囲気、街の色を感じていなかったことに気がつきました。本当に被災地を理解することは数字を知ること、映像を見ることだけではないと実感しました。

赤浜の風景。家は流され跡だけが残る家が多い。

作業は瓦やガラス片、コンクリートなどを拾い集めるものでした。スコップで土を掘り返せば掘り返すほど、名札やビデオテープ、おもちゃなど様々なものが出てきます。壁も柱も無く、あるのは家が建っていたのであろう跡、そしてボロボロになった鉄筋コンクリートの建物ぐらいです。しかし今でもそこには人が生活し、思い出を作った跡が残っていました。被災地の状況を写真で見た感想として、「なにもない、全て失った」などの言葉をよく耳にします。しかし今日私は何もないのではないと思いました。そこに住んでいた人々にわかる、どこか思い出を蘇らせる何かがまだ残っているのではないかと思います。だからこの街から離れたくないという方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

赤浜には最近1軒の喫茶店がオープンしました。名前は「チロリン村 ぽんた」。店主の方は仮設住宅で暮らしながら、お店まで通っています。短い時間でしたが、津波が起こった時、また4日目に自衛隊に発見される時までのことを詳しく話してくださいました。ここまで詳しい話を聞いたことがなく、ただ驚きました。最後に店主の方が「皆さんにありがとうと伝えたい」とおっしゃっていました。この「チロリン村 ぽんた」に関しては、今後詳しくブログを書きたいと思っていますので、ぜひ皆さんに読んでいただけたら嬉しいです。

「チロリン村 ぽんた」3月赤浜にオープンしたばかりの喫茶店。

いよいよ始まりました!感じたことを皆さんに届けたいと思います。よろしくお願いします!

3月
7

3月5日~7日 -現地から若者へのメッセージ

3月5日、6日は阿部農縁さんでお手伝いです!

阿部農縁さんは大正時代から受け継がれ、今は4代目の寺山佐智子さんが代表を務める歴史ある農家さんです。東日本大震災での風評被害から、代々受け継がれてきた畑を守ろうと頑張っている農家さんの1つです。 

積雪

両日、なんと雪が積もり、雨が降っていました。大阪ではなかなか見られないほどの積雪で、外では作業ができないので屋内で活動しました。私は阿部農縁3代目にあたる阿部正子さんとご一緒させていただいて、出荷用の商品を容器に入れ、用意をする作業をさせていただきました。この2日間では福神漬け、大葉味噌、パリパリ大根などの出荷のための袋詰め、そして阿部農縁でお勤めの皆さんのお昼ご飯作りなどをお手伝いしました。

袋詰めの作業

皆さん、とても明るく優しい方達で毎日が楽しく、震災後の被害にも負けずとても前向きに農業に励んでいらっしゃいます。農園で採れた野菜を使ったお昼ご飯はとても美味しいです!

 

 

そして3月7日は阿部農縁の寺山さんに勧められ、ある会合のモーニングセミナーに行かせていただきました。そのセミナーには様々な企業の方達が来られており、お話を伺える機会がたくさんありました。私たちの活動の趣旨を伝えると、皆さんは快く震災に関するお話をしていただきました。

 

―ある女性の方によるお話

東日本大震災後の昨年のある日、東京で電車に乗ると「福島第一原子力発電所の水素爆発の影響により、今年の東京は暗い」という掲示が目に入った。私達(福島県民)は東北電力の事業地域であり、東京電力の電力を一切受け取っておらず、関東地方のために電力を送ってきたようなものなのに「福島のせいだ」と言っているような書き方をされるなど、関東地方にまで風評被害を被るなんて……それに対して非常に怒りと憤りを感じた。しかし、だからといって今まで私達は原子力発電所を持つ地域の住民として、原発に関することを何も知ろうとしなかったし、「安全」について何もやろうとしなかった。だから悔しい…そういう意味でも、住民の私達にも責任があるんだ…。

今回の震災で、原発の問題に留まらず、日本の行政や地方自治体などの様々な危機管理体制や危機管理に関するシステムの姿が顕著になった。私達ではもうどうにもできないこともあるが、若い人なら今からでもできることがたくさんある。今回の震災で分かったことを、これからの日本を担う若い人たちに託したい。今までの日本のシステムは本当に良かったのか…を改めて考えてほしい。自分の生き方、考え方をしっかり持ち、ふらつかないように生きていってほしい(自分の利益や欲だけを追求するためにではなく…)。原子力発電のような近年人間が新しく作り出したものを、また新しくやり直していってほしい。

 

…と、目に涙を浮かばせながらおっしゃられていました。私達に懸命に思いを訴えかけているその姿と涙に、私も思わず涙ぐみました。

 

この貴重なお話を聞かせていただいて、改めて私達の年代がこれからの日本を創り上げるんだ、みんなを支えていくんだ、同じような被害は二度と繰り返さないようにすべきだと自覚できました。また、このような現地の方々の思いを真剣に受け止め、社会安全学部生としてもこの震災での教訓や現地の方のメッセージをできるだけ多くの方に伝え、知っていただきたいし、これからの自身の勉学や様々な活動にも反映させていきたいと思いました。