鵜(うーの)はまなす商店街‐つどいのひ
今日は鵜(うーの)!はまなす商店街で、「つどいのひ」を開催!!キャンドルを鵜(うーの)はまなす商店街の周辺から集ってくださった方々と並べていく。
キャンドルはサッポロビールから提供して頂いたもの。その数400個!!
昨日は「つどいのひ」の宣伝のため釜石町鵜住居地区の仮設へビラ配りに。せっかくなので、迷惑かなと思いつつ一軒づつ「はまなす商店街で~す!」と声かけしてのポスティング。
扉が開いた!と思ったら、どこかで見た顔…寺前商店の店主さん!そのまた後ろから、ひょっこり顔を出してくれたのは、店主さんの娘さんたち!
私が、はまなす商店街に来て、最初に仲良くなったのが、この3人姉妹。小1のお姉ちゃん先頭に4歳3歳とはまなす商店街中を元気に駆け回る3人は、この商店街の太陽的存在。震災後は、3人とも警報音がなると自分の大切なおもちゃと車のキーを持って身構えるようになったとお母さんは言う。お姉ちゃんが「お父さんひっぱって行くー!!」といえば、下の二人も「お父さんと行くー!!」とニコニコ笑顔。もう家族そろって参加決定やね。
そんなこんなで、ビラ配りを終えた昨日。頼もしいことに今日は都留文科大学災害ボランティアチームの大学生さんの応援もあって、キャンドルを並べる台紙もあっという間に完成。都留文のみんな、ありがとう!
午後5時、つどいのひ開始。まだ人数も少ない中で、最初の一灯目を受けとって台紙に置いてくださったのは開始前から商店街で準備の様子を見ていて下さった1人のお母さん。
昨日、配ったビラを見てきてくださったというのでお礼を言うと、亡くなった旦那さんのために祈りに来たことを話してくださった。「この灯は、お父さん。」と、やさしく微笑んでキャンドルに手を合わせるお母さん。
大切な命を失った悔しさ、だからと言って泣いても始まらない切なさ、笑顔のお母さんにだって、急にさみしさが込み上げてくるときがあるのかもしれない。明確な答えがあるわけでなくとも、そのままではいられない。そんな複雑な思い。私にできたのは。入り混じる心境のなかで生まれる言葉の一つ一つにしっかり耳を傾けること。
私に分かったのは。釜石に生きる人との繋がりが、釜石に訪れた人を明日も、何度も、もう一度来ようという意志を強めてくれること。
お母さんとの縁に、私が今、この地にいる事の意味を改めて教えてもらった。
それからは、キャンドルの1つ1つにも想いを込めて手渡しをするようになった私。空が暗くなると共に人も増え、キャンドルの周りは地元の人と釜石の外からやってきた人とが交じり合う、語らいの場になった。
いつのまにか、商店街に集まった全員でキャンドルを囲んで、手をつなぐことになった。明日で震災からちょうど1年。抱く想いは違っても、明日への一歩はみんな一緒に進みたい。
いわてあおもり復興協議会からの取材もあり、「ふるさとふれあいプロジェクト」のHP内にある『現地からのレポート』に、今日のことを載せてくださっている。
今宵、鵜(う~の)はまなす商店街!に、つどって頂いた皆様。ありがとうございました。釜石・鵜住居は今日も元気。
背中姿は寺前商店の親子2人。

3月11日 農家民宿オープン! ―強さと生きる力
3月11日は阿部農縁の農家民宿がオープンする日です!
この日を迎えるために、3月9日、10日、東京大学生のボランティアさん達や寺山さんの娘さんも交えて私達は農園のお手伝いだけでなく民宿の改装のお手伝いもしました。特に民宿内の壁塗りは初めての体験で、とても印象に残っています!
11日、農家民宿のオープン日では「民宿オープン内覧会」として、同じ農家仲間の森農園さんによるギター演奏や地元の方との餅つき大会、民宿でのカルタ大会などが催され、阿部農縁に関わる様々な世代、繋がりの方達とのふれあいがありました。皆さんとても楽しんでおられ、非常に盛り上がりました。
また、14:46の東日本大震災発生時刻には参加者全員で黙とうし、亡くなった方々へのご冥福をお祈りしたと同時に今、生きていられていることへの感謝をしました。
寺山さんは震災発生当時、桃の摘蕾をしている中で被災されました。また福島第一原発の水素爆発による放射性物質などで不安な日々を送られ、一時は県外非難を考えられたらしいのですが放射線量が下がり、福島に踏みとどまることにしたらしいです。しかし、そこに風評被害という問題が寺山さんに突き付けられました。贈答用の桃から徐々に売れなくなり、売れ行きは震災前に比べて落ちたらしく、めげずに首都圏での復興イベントなどに出向いて直売を続けるも福島の桃だと知ると「検査済みですよ」と説明しても返す客がいたそう。「農産物を売り続けるために、ずっとこんな売り方をしなければいけないのか?福島という土地、農産物を理解する真のファンをじっくり作るためには、実際に福島にきていただいた方が良い」と、震災が発生した1年後にあたるこの日に農家民宿を始める決意をされたらしいです。「私達はここで生きている。思いを共存できる人と一緒に福島の自然・人・農業にふれあい、福島を楽しみたい。福島県に多くの人が来てこそ、本当の復興になるんだ。」と風評被害などの問題に負けず、むしろ跳ね返そうとしていらっしゃいます。
この日の寺山さんは1日中笑顔でいっぱいでした。阿部農縁を応援する地元の方、同じ農園仲間の方、様々なご縁で繋がった関東地方にお住まいの方や学生さんたち…たくさんの方に囲まれ、とても幸せそうでした。
まだ、私はたった1週間しか福島県に滞在していませんが、福島県の皆さんのたくさんの「強さ」を知りました。福島を愛し守り抜こうとする強さ、今まで人間が経験したことのなかった辛さや苦しみに立ち向かい跳ね返そうとする強さ、常に前向きに考え自分の人生をめいいっぱい楽しむ強さ。福島県の皆さんは自ら持っている様々な強さを味方に放射線問題、風評被害などに立ち向かっておられます。この様々な強さが今の福島の方々の生きる力となっているのだと考えます。このような福島県の方達と共に毎日過ごさせていただいてこちらも生きる力と元気をいただけ、同じ人間として学ぶこともたくさんあります。東北地方の復興を願い応援する全国の方にも是非福島を訪れ、生きる力を感じとっていただき、みんなで共に復興していけたら良いなと考えます。
海の近く。本当に必要とされていること。
今日は午前には広田湾の漁師さんたちとイシカリ貝の漁に使われる仕掛けづくりをしました。実際に漁場に入っていくのも、漁を体験するのも、漁師さんとふれあうのも、どれもこれも初めての経験ばかり。潮の香りを感じながら教えていただきながらの作業の中、少し照れくさそうに話しかけてくださいました。漁のこと、災害のことやご家族のことなど様々なお話をする中、着実に近くなっていけていることを感じました。この漁場という場所がそうさせるのでしょうか。漁師さんたちも漁のお話をするときには生き生きとして、ただ海は自分の一部だと、畏敬の気持ちを持ちながらお仕事をされていることが伝わってきました。そんな作業をしながらの時間は皆さんとふれあえるのが楽しくてあっという間でした。休憩も挟んでの午前の時間は仕掛けを完成させ、皆さんと写真を撮りました。
お昼には漁師さんのお宅に伺いました。家が高い場所にあったため地震の被害ですんだそうです。ご家族とともにご飯を頂きながら、お話を聞かせていただきました。そんな中でたくさん考えることがありました。
津波を含め災害のお話ももちろん聴くことができました。津波がやってきたのは1度ではありません。押しては引いていくそれは物凄い音を立てて何度も何度もうっては返しました。それは夜通し続いたといいます。私たちが作業していた作業場も全て水に浸かり、保管していた道具も流され、漁に使っていた船も流され、災害後は片付けから始まりました。そんな中で続いて災害後の行政対応や仮設住宅の現状、保険や保障のお話も聴き、現地の方々の現状を感じ、そのご家族とともにある生活を感じました。しかし、私にはどうすることもできません。そして現地の方々も私たちになにも求めてはいませんでした。若い私たちに出来るのはただ足を運んで、一緒に笑って、話すことでした。「ただ、遊びに来て。笑顔だけもってきて。」と優しく、そして力強く言葉をかけられました。そして、この現状をたくさんみて、感じて。たくさんの人に知らせて欲しいと。ただ来てくれるだけでいい。「大学生が来るよー」といえば朝からはりきって昼食をつくるおばちゃんたち。その場面を思い浮かべただけで、笑顔になりました。様々な人が様々な被害にあっています。しかし、求めておられることの根底にはそういう思いがあるのかもしれないと感じました。
また、私にとってはそのようなお話を聴くことができたと同時に少しの時間ではありましたが実際に漁師さんたちと話し、漁に携わることができたことも収穫でした。海のこと、漁のことを語る漁師さんは本当に輝いて、かっこよくて素敵でした。震災がなければこのタイミングで訪れることもなかったのだと思うとこの出会いを大切にしたいと思います。訪れなければ分からないことはたくさんありましたが、それは言葉にしてしまえば簡単ですがそれを実際に行動して、感じることの大切さに気がつきました。同時に自分がこのような機会をいただけたことに改めて感謝しました。もっとたくさんの人々が現地の方々とかかわり、つながりを持っていけることを信じています。
写真1 広田湾での集合写真。楽しく、充実した時間でした!
献本作業
写真①《積まれた本》
写真の本がこの後どうなるか分かるでしょうか?
この本は全国からここ遠野市役所に送られてきた本です。しかしこの本は司書の方たちが何度も献本した結果、本焼けが酷かったり、本の中にラインを引かれていたり、カバーが破れていたりと状態が悪いと判断された本の山です。これらはこの後処理場に行き処分しなければなりませんでした。
今回、僕は遠野市役所が行っている沿岸部の文化復興支援を手伝わせていただきました。ここでの活動は大きく二つの柱からなっています。一つ目は、津波により流され海水や泥などにより汚れた貴重な資料を綺麗に整理する活動です。二つ目は、全国から被災地に向け送られてくる本をジャンルごとに分類する活動です。僕は二つ目の本を分類する活動に主に参加させていただきました。なぜ分類が必要かというと寄付された本をただ沿岸部に送るのでは、送られた側に必要のない本が送られることがあります。これだと、ただ場所をとってしまい邪魔になってしまいます。そこでこの遠野市役所で本を分類し、欲しいと依頼された本を素早く見つけ送ることのできるように分類をしています。その他にも先ほど写真で見ていただいた状態の良い本、悪い本の仕分けも行っています。
写真②《仮の倉庫》
ここは実際その仕分けられた本が保管されている倉庫です。送られてきた本の数は現在までに約25万冊です。送られてくる本の中でもっとも多いのが詩など文芸書に分類されるジャンルの本です。また作品別に見て最も多く送られてきた作品は『星の王子様』の100冊で、次いで『五体不満足』だそうです。寄付される本の傾向としては少し前に流行した本が多いそうです。逆に日曜大工やレシピ本など実用書は不足していて足りないそうです。また倉庫で使っている本棚の数にも限りがあり、現在は東日本大震災の時に倒壊の認定をされ、取り壊しになった遠野市役所の建物で使われていたロッカーなどが本棚の代わりとして使われています。下の写真は現在、本棚として使われている職員のロッカーです。
写真③《仮の本棚》
手伝わせていただいた職員さんが「本を送る際は連絡を入れてほしい」とおっしゃっていました。誠意を無駄にしたくないことや、十分に足りている本を送られてくると場所にも限界があり、保管場所に困るからです。また事前に連絡を入れていると本が到着した際に本の仕分けがスムーズにでき時間の短縮にも繋がります。
僕が手伝わせていただいたこの活動で学んだことは、ただ被災地に物資を送るだけでは迷惑になってしまうということです。ニュースなどでこういったことは耳にしたことはありましたが、実際にその現場を見るとより一層深く考えさせられるものがありました。物資を送る場合は現地でいま本当に何を必要としているのかを理解し、いざ送る場合は連絡するのが良いと思いました。
「ボランティア」としてやるべきことは…
遠野に入って5日が経った僕ら後発隊。天候も僕らを迎えてくれたかの様な、ほとんど0度を下回らない温かい日が続いています。
この数日間は非常に濃い日々でした。
それは3月4日、行きの電車から始まりました。同じ電車に乗っていた女性の方に声をかけられたのです。釜石市にお住いの、学校の先生なのですが、子供たちの心のケアに携わってらっしゃる方でした。本当に出会いは偶然からだと思い、いろいろとお話を聞かせていただきました。子供たちに、真ん中に自分の顔を書いて、自分の周りの人やペットや、建物、自分にかかわると思うものすべての繋がりを書いてください、という質問をしたプリントを見せていただいたところ、震災前のプリントは、子供たちは皆思い思いに自分の顔を書いて、その周りには繋がりとして、「パパ」「ママ」「お兄ちゃん」など家族や、友人、ペット、さらには、近くのコンビニまでしっかりと書いていました。
しかし震災後の繋がりは、多くても「パパ」か「ママ」のどちらか、もしくは何も繋がりを書かない子供、そのうえ自分の顔すら描かない子供が大勢いました。その子供たちは、今何が欲しいかと尋ねられると、「なにもいらない」と答えるのだそうです。
この女性の方はこういった子供たちの心をどうすれば救えるのか、笑顔にできるのかをずっと考えていらっしゃる方で、そしてそのことを時間の許す限り、詳しくお話ししてくださいました。まだ、ボイスレコーダーを持っていなかったのですが、そのお話は忘れることのない衝撃的なものとして強く印象に残りました。電車に乗っている短い時間でしたが、子供達の心を救うにはどんなことが必要なのか、ということを考えさせられた時間でした。
その後3月7日、僕らは大槌町で宅地跡の清掃のボランティアに参加しました。大槌町はいまだがれきだらけで、建物の基礎がそこら中に残っている状態でした。
私たちの仕事は、その建物の敷地内に積もったがれきや土を掘りだし、きれいにすること。この日も60人近いボランティアが参加していました。大槌は釜石に比べ、比較的作業が進んでいるそうです。
写真① [作業の様子①]
写真② [作業の様子②]
このボランティア中、たくさんの地元の方に出会いました。その誰もが明るく挨拶してくれました。それは、小学生も同じでした。その明るい笑顔を見て、遠野に来るまでの電車で聞かせていただいたことを思い出しました。この子たちのように、心に傷を負った子達が明るく笑えるように、今、何ができるのか。すごく難しい課題だと感じました。
最後に、復興の第一歩を見つけました。津波に襲われた何もない街に、つい最近オープンしたファミリーマートです。
これがこれからの復興の先駆けとなってくれることを願います。
写真③ [ファミリーマート]












