~三陸鉄道・再開PR動画撮影会~
4月1日に北リアス線陸中野田駅から田野畑駅間の運行が再開します。その再開を喜び、また震災復興支援への全国、全世界への方々への感謝の気持ちを表すため、「笑顔をつなぐ、ずっと・・・」をテーマに再開PR動画の撮影会が行われました。私たちはその撮影会に参加し、三陸鉄道の現状などを学びました。
久慈市→野田村→普代村の順で移動し、PR動画を撮影しました。この撮影会には小学生の子供たちからご年配の方まで、幅広い年齢層の地元の方々が参加していました。参加者の様子を見ていると、三陸鉄道は本当に地元の方々に愛されているのだと感じました。
しかし、三陸鉄道は震災前の通常運行状況でも乗車客は少なく、経営が難しかったといいます。「年に一度は三陸鉄道に乗ろう」というポスターが作られるくらいです。その経営難の背景には、北岩手沿岸部の車社会があります。地元の人々の主な交通手段は自動車です。そのため、鉄道を使うのは車を運転できない幼い年齢層とご年配の年齢層です。時刻表を見ると、電車が来るのは約1、2時間に1本と、大変少ないと感じました。電車の本数が少ないから鉄道を利用せず自動車で移動するようになる。自動車での移動が増え、鉄道の利用が少なくなると電車の本数がさらに少なくなるという負の連鎖になっていると思いました。この現状を改善するには、今以上に鉄道の魅力を発見し、PRすることが必要です。
今回の再開PR動画が三陸鉄道をさらに活気づける一つのきっかけとなり、いつまでも地元の人々に愛され続ける三陸鉄道であってほしいと思います。
(PR動画は3月中下旬にYouTubeなどで広く公開される予定です。)
風評被害と被災地の現実
福島県田村市の商工観光課に勤めるAさんにあぶくま洞に連れて行っていただきました。あぶくま洞は福島県田村市にある鍾乳洞です。福島第一原発の西に位置する田村市では、原発事故で避難指示が出た半径20キロ圏(※田村市の4月現在:住民の一時帰宅、公益目的の立ち入りなどを柔軟に認める「避難指示解除準備区域」)、屋内退避が指示された20~30キロ圏、何も指示が出ていない30キロ圏外の3つの区域に分かれています。今回私たちが連れていっていただいたあぶくま洞も福島第一原発から30キロ圏外ではありますが30キロに近いところに位置しています。
距離を聞くだけでは一見リスクもあるのではないかと感じますが、実際にあぶくま洞で計測してみても放射線量には問題はありませんでした。
それは今回の震災時の風向きや地形の影響で原発より南部にある地域では北部に比べると格段と線量は低いとされているからです。そして、お話を聞いたり自分で放射線に関することも調べてみました。やはり、原発事故によって、広範な地域に住む周辺住民、特に放射線被害を受ける危険性のある妊婦、乳幼児、子ども、そして若い世代の健康への不安は拭いきれないところがあるようです。どこまでが安全とされるのか、どのくらいの基準で住民の方の安心感が得られるのかを判断することは本当に難しいことであると感じました。
Aさんがおっしゃるには、彼の職場には「そちらでは防護服を着て生活しているのですか?」「子供が福島県に行っても大丈夫ですか?」などといった問い合わせが寄せられることが現在でもあるそうです。福島県には医療的も推奨される療養温泉があり、この温泉中は微量の放射線が含まれている放射能泉だそうです。それらによる放射線などが日常的に存在しているにも関わらず、そうした報道がないため、福島という名前だけでマイナスの判断がされてしまうのが現実だそうです。しかし、こういったお話だけでなく、福島県の元気も伝えてください、とAさんはおっしゃっていました。放射線による風評被害でマイナスのイメージが漂う中、福島県の方々は明るく、笑顔で復興に向けた活動をされている方がたくさんいます。風評被害に負けず、復興に向けてプラスの方向に動きつつある福島の現状を多くの人に知ってもらうことで観光地や地元の特産物などのアピールにもつながるのではないかと考えました。
大槌町の現状
これが初めての投稿です。
今回は大槌町に着目して書いていこうと思います。
大槌町、、、みなさんはどのようなイメージをお持ちでしょうか?
ひょっこりひょうたん島で有名な蓬莱島を思いつく人も多いのではないでしょうか。
その蓬莱島も震災前は歩いて行けるように道があったのですが、津波によって道が流されてしまい、今は孤島になってしまっています。
街の復興のためには観光を強化していく必要があるはずです。この蓬莱島の再生こそ大槌町の復興の手助けになるのではないかと感じました。
その他にも観光の面だけでなく、この震災の記憶を伝えていくためにも何もかも取り壊していくのではなく、残すべきものは残していく必要があるのではないでしょうか。
すでに安全面の不安や復興に支障が出るという意見が出て今は無くなってしまいましたが、民宿の上に漂流した遊覧船「はまゆり」のインパクトが私的には非常に大きかったので東日本大震災の被害の象徴として個人的に保存して欲しかったです。
大槌町は、大きな地震が発生し、それによって津波が押し寄せただけではなく、地震の後、大火災が起きて街中の建物や木などが焼き焦げてしまったそうです。そのせいか残っている多くの建物も黒く焦げ、さらに塩水に一度さらされていることから結局取り壊さなければならないという悲惨な状況でした。
この大槌町に初めて入ったのは3月7日、この日が初めてのボランティア活動日でした。
私たちが担当していた大槌町の赤浜にはほとんど建物がなく、住宅の敷居と多くのガレキが散乱している状況でした。
地元の方のお話によると、津波が7回も来て、建物や人など根こそぎ流していき、802名の方が亡くなられたそうです。
~ボランティア活動~
私たちが担当したのは住宅跡の清掃活動です。住宅跡には敷居だけが残っており、その中には多くの生活用品の破片やガラス片などが散らばり、そのガレキ処理を行いました。野球ボールなどの思い入れのある品々も出てきて、気持ちの面では少し苦しかったですが、心を込めて清掃させていただきました。
大槌のガレキ撤去は進んでいるそうですが、多くのガレキが山積みになっており、街が復興していっているというよりかはまだ片づけの途中段階であると感じました。
なかなか難しい問題かもしれませんが、ガレキ引き受けの場所を被災地だけの問題だと考えるのではなく、全国民の問題だと受け止め、一刻も早く決めていくことが復興の一番の近道ではないかと感じました。
その他にも大槌町の赤浜で”チロリン村ぽんた”という店を始めた方に震災直後4日間の体験談を話していただきました。
被災直後の生活は私からは考えられないようなものばかりで、避難時の緊迫感や恐怖感、その後の生活の苦しさを知ることができました。
前回はボランティアの休憩時間を利用してのお話だったのであまり詳しいことをお聴きすることが出来なかったので、
帰るまでにもう一度、大槌町の”チロリン村ぽんた”に行って、なぜまた沿岸部に開店したのか、などの経緯や詳しいお話を聴いてみたいと思います。
その内容はまた次回の更新で書きたいと思うので、またよろしければ読んでください。
思いとアイディアを新たなお店に
遠野市の上郷町にある産直かみごうと言うビニールハウスで出来たお店を訪れました!
このお店では地元遠野で採れた野菜や果物などを販売しています。
またネットや電話からその日採れたての物を即日発送を行うという鮮度を重視した販売も行っています。
中に入るとたくさんの野菜や果物が売られていました。
野菜や果物だけでなく、花や漬物、ジャムなども売られていました。
その中にそば焼き餅と言う岩手に昔から伝わる伝統的なお菓子がありました。
そば焼き餅はそば粉を使った餅にくるみ、味噌、黒砂糖を混ぜたものを挟んで作ったお菓子です。
甘くてくるみや味噌の味が効いていてとても美味しかったです!
このお店の店長である菊池玲子さんと新田英雄さんにお話を聞きました。
この店は被災した直後、少しでも多くの人に食べ物が届くようにとすぐ営業を再開するように努め、近隣で最も早く復興したお店となったそうです。
そして営業再開から今までたくさんの人に新鮮な野菜や果物を提供する場となりました。
このお店は3/25をもってこの場所での営業を終了し、4/29から500mほど離れた場所で夢産直かみごうとしてリニューアルオープンします。
現在建設途中の夢産直かみごうの様子です。
ここでは以前のように遠野産の野菜や果物を売るだけでなく、地元の奥さま方の集まりである「あくてぃぶまみー」が採れたての野菜などを使って作るレストランと地元で採れた牛乳や果物、野菜を使ったジェラートの店が併設される予定です。
ジェラートの味には遠野で作られているくるみやカボチャ、ブルーベリーを使おうかという案がありました。
ぜひ一度行ってみたいと思いました!
またこのお店は子供たちと作りあげるお店と言うコンセプトをもとに作られようとしています。
元々産直かみごうで働いていた「あくてぃぶまみー」のお母さん方から「子供のいるところで働く」と言った言葉からヒントを得て、子供たちも一緒に働いたりお手伝いをするような環境づくりを考え始めました。
夢産直かみごうにレストランを併設してそこにお母さん方が働けるようにしたり、田んぼや畑を隣接し、そこで地元の小学生や中学生と一緒に野菜作り・販売を行ったり、自分達で搾った牛乳をアイスクリームに出来るスペースを設置すること、日や時間帯によって子供達に店番をしてもらう制度を作るなど、ユニークな案を盛り込もうと考えているそうです。
近年親が働く機会を生で見ることが少なくなっている子供達に親の働いている姿を見てほしい、野菜作りや店番と言った経験を通して子供達に更に成長してほしいと言った思いがこの店のコンセプトの1つになっているそうです。
いろんなことを考えて店づくりが進められていることに驚き、とても関心を抱きました。
この話を聞かせていただいたことでさらに完成したこのお店を見てみたいと思いました。
震災を乗り越え、たくさんの願いやアイディアをよって作られようとしている夢産直かみごう。
どんな姿に生まれ変わるかとても楽しみです!!
がれき処理と仮設住宅の問題
岩手県中核観光コーディネーターの会長、草野さんの案内で、宮古の街を巡りました。駅前はとても人が多く、賑わっているなあと感じたのですが、いざ港の周辺へ行くと状況は一変。人はほとんど歩いておらず、津波で流されて、土台だけが残った家ばかりが残っていました。市街地が被害を受けておらず、港の周りが被害を受けているのは久慈市と同様ですが、久慈市はここまでの被害を受けていません。
聞くところによると、このように土台だけ残った家というのはとても厄介だそうです。なぜならば、家を再建するためには、この土台をすべて取り除くという工程を挟むからです。かさ上げをする時も同様です。これは民家だけでなく工場にも言えることで、手間とコストがかかり、街の復興・復活への、大きな妨げになります。では、再建するために、土台を取り除くとしましょう。そうなるとその土台はどうなるでしょうか。もちろん、がれきとして処分されます。つまり、今日問題となっている、がれきの広域処理の問題にも繋がるのです。
岩手県は平成24年3月末までにがれきの全撤去、平成26年3月末までに、全部の処理を目指しています。宮古市も例外ではなく、東京都による広域処理に対する協力を得ているといっても、まだまだ処理するがれきは残されています。しかし、これら住宅の土台を撤去しようとすると、またがれきの量は増えるのです。すなわち、現地の復興は、また遅れることとなるでしょう。
だから、がれきを東北の各県だけではなく、日本の至る所で処分しなければならないといけない、と声を大にして言いたいです。これこそ助け合い、昨年の流行語大賞トップテンに入った、「絆」ということではないのかな、と自分は思います。宮古だけにとどまらず、この震災で生じたがれきの処理を受け入れてくれる自治体は、少ないのが現実です。状況はすぐに好転せず、きっとまだ、この件の解決には時間を要するでしょう。それでも、早くがれきの処理がなされることを、切に願います。
さて、これは仮設住宅の写真です。
仮設住宅ハウジングメーカーが作った仮設住宅は、壁が緑色に塗られている。
この仮設住宅は景勝地・浄土ヶ浜から車で数分のところに位置しています。おそらく、岩手県は山間部が多く、なおかつ海沿いを避けようとした結果、観光地のそばでも、仮設住宅を建てるとこととなったのでしょう。仮設住宅を建てる土地がないことがうかがえます。
仮設住宅にもさまざまな問題があります。集合住宅みたいに密集しているところがあれば、10戸ほどでポツンと設置されている仮設住宅もあります。バス停の近くにあるところがあれば、バスが通っていない場所に設置された仮設住宅もあります。高校に通うため、駅まで他の人の車に乗せてもらう・・・という学生もいるそうで、とても不便を強いられている状況です。
つまり、仮設住宅ひとつとっても、格差があるということなのです。もとの場所に家を建てることができるなら、問題はありません。しかし今回は海沿いの、元あった場所に家を建てることができるか。それが焦点となっていて、すぐに建てることはできないでしょう。
阪神淡路大震災の時は、仮設住宅から住民が退出するのに、5年近くの時を要しました。おそらく、今回の震災では、もっと時間がかかるのではないか。自分はそう考えています。ともかく、今は地域の住民の方との話し合いの時期。慎重に議論を、進めてほしいものです。


















