初めての仮設住宅訪問
「浜のミサンガ環」の地域リーダーをされている船砥さんのご好意により、陸前高田市の仮設住宅に行かせていただきました。
まず浜のミサンガをご存知でしょうか?このミサンガは被災された女性が編んで作っており、その売り上げの約半分が作り手の収入になります。仕事をすることにより、収入を得るだけでなく、仲間ができ、仲間と語り合い、それが高齢化の進む仮設住宅内での孤独死も未然に防ぐことができると教えていただきました。
このミサンガの価格は1100円で、被災地だけでなく東京や名古屋、大阪でも販売されています。被災地に行かずとも、これも立派なボランティアになります。様々な色もあるのでぜひチェックしてみて下さい!ちなみに僕も復興食堂で見つけてすぐに購入しました!
仮設住宅に訪問する前に車で陸前高田市と大船渡市を案内していただきました。その中で一番印象に残った場所を紹介したいと思います。
この希望の灯りの近くの石碑には次のように書いてありました。
『この「希望の灯り」は2011年3月11日午後2時46分に発生した
東日本大震災で被災された方々に
少しでも希望を持っていただきたいとの思いから
国内外からのご寄付をもとに
被災地のみなさんとボランティアが協力して建立しました。
ここに灯る火は、1995年1月17日午前5時46分に発生した
阪神淡路大震災で被災した方々をはげまそうと
全国47都道府県から種火が集められ
2000年の1月17日、神戸市の東遊園地に
「1.17希望の灯り」として点灯され、いまも灯り続けています。
震災が教えてくれた
やさしさ、思いやり、仲間、絆の大切さを忘れることなく
ともに歩んでいきましょう。』
2011年12月10日建立
このように被災地のことを多くの人が気にかけていること、日本の絆の強さを感じることができました。これからも希望の灯りが灯し続けるように、被災された方々は希望を持ち続けていってほしいです。そうすれば被災地の早期復興につながっていくはずです。
その後、船砥さんが住んでいる仮設住宅に行かせていただき、そこで多くの話を聞かせていただきました。様々な話を聞いていると仮設住宅の現状や問題、課題が見えてきました。
仮設住宅というと、どこか暗いイメージを持っていましたが、ここは違いました。ご近所付き合いもあり、本当にみなさん仲が良かったです。しかし、最初は仮設住宅の中に知り合いが一人もおらず、会ってもあいさつをする程度で雰囲気も暗かったそうです。さらにこの仮設住宅は、全46世帯中12世帯が一人暮らしのお年寄りと非常に多く、このままでは高齢者の孤独死を招いてしまうと船砥さんは感じ、ミサンガのプロジェクトの参加を促したそうです。
ここまで仲が良い要因としては46世帯と比較的に小さい仮設住宅だからとも考えられます。やはり小さい仮設住宅の方がコミュニティ形成されるのでしょうか。しかし小さい仮設住宅にも問題がありました。50世帯以上ないと最初から交流の場である集会所が設置されなかったそうです。市に問い合わせて1年経過してやっと設置されたようです。その後、実際にその集会所で集まって、楽しく食事や会話をさせていただき、笑い声が絶えなかったです。
集会所でご飯をいただきました
本当に元気いっぱいの方ばかりで逆に元気をもらってしまうほどでした。僕たちのような若い人たちが行くことで本当に喜んでいただけました。船砥さんも、「とにかく仮設住宅に笑顔で来て、私たちと話をしてほしい。話を聞いてもらえると気持ちが本当に楽になる。それでその経験を帰って多くの人に伝えてほしい。」とおっしゃっていました。これも立派なボランティアです。
最後に一枚、、
この言葉のように被災地は徐々にですが復興していっています。この被災地の復興にみなさんも協力することができます。被災地に足を運んで観光するのもボランティア、ミサンガを購入するなど被災地に行かずとも出来るボランティアなど様々なボランティアがあります。他人事だと思わず、被災地の復興の手助けをみんなでしていきましょう!
ボランティアしながらの合宿免許という制度
3月13日 今日は、被災地での活動初日でした。山里ネットさんの案内により、陸前高田のドライビングスクールに行ってきました。ドライビングスクールへの依頼は、「合宿免許とボランティアをセットにすることができないか」というお話でした。
【写真1:陸前高田ドライビングスクールの様子】
このプランのターゲットとして考えているのは、大学生ということで、会議に参加させていただいた際は、大学生の目線で見た時の意見を求められました。陸前高田ドライビングスクールでは、以前にこのプランで募集をし、実際に10人弱の方が参加されたそうです。その企画を通して社長の田村さんが感じたこととして、このプランに参加する大学生の意識レベルに差があることだそうです。
つまり、ボランティアをしたいと考えている上で免許がないからとりにいくという考えの人と免許をとりたいと考えた際、ボランティアがオプションとしてついているという考え方をしている人の2種類がいるということです。 今回お話を聞いていてとても印象に残ったのは、ボランティアに対する意識の異なる人が被災者の方々にどういう印象を与えるのかという点です。 話の中で、ボランティアを大学の授業の単位の一環としたらどうかという話がでました。ボランティアのニーズがある側としてはそれだけ多くの人にとにかく来てもらいたいのだという印象を受けました。つまり、支援を受ける側としては、どんな意識を持ってボランティアに来ても、とりあえず来てくれたら助かるという感じでした。
この時、正直に言うと残念に思いました。確かにボランティアというと支援する側という捉え方になりますが、私は支援する側とされる側という関係の上で何かの作業を行うのはあまり良いことだと考えていないからです。今はニーズに答えるという形で行なっていますが、どこまでがそのニーズと言えるのかという問題も上がってくるからです。ボランティアという捉え方が共に考えた上で必要とされた作業に共に取り組んでいくことが重要なのではないかと思いました。
【写真2:高田自動車学校の田村社長との写真】
毎年、関西大学の学生にこのプランへの募集をして、より多くの方に被災地へ来る機会をつくっていけたら良いなと思いました。やはり、ニュースで“見る“のと実際に行って”感じる“のは本当に違います。多くの方に、こういった取り組みが広まれば良いなと感じました。
協力することの大切さ
あなたにとって一番大切な写真はなんですか?
その写真にはどんな思い出が詰まっていますか?
今日は大型スーパーの一角で行っていた写真返却展について書きたいと思います。
そこの写真返却展はある団体が大槌町内で拾得された写真やアルバムなどを展示し、持ち主に返却しています。写真は自衛隊、がれき撤去をしていたボランティア、解体業者などから届けられたものです。届けられた写真を名前が記載されているものは名前を一覧にし、あとはアルバム別やテーマ別(結婚式、卒業式、修学旅行、入学式など)に選別しています。返却時の写真の状態は町によってさまざまですが、大槌町の場合は、できるだけ早く持ち主に返すことが目的なので、見える程度まで洗浄できた状態で展示しています。
しかし、その土地で見つかったからといってその土地の人の写真かどうかはわかりません。津波で流されてきたものもあります。そのため、この写真返却展の広報活動は町内外で行っています。広報活動は仮設住宅でのビラ配り、大手スーパーでのビラの掲載などです。普段は写真目的のためだけに訪れる人が多いのですが、今回は展示会が最後ということで買い物目的のお客さんがふらっと立ち寄ることを目的とし、大型スーパーに出展したそうです。また、写真を受け取るのは本人でなければいけないという決まりはありません。1人の人が300以上もあるアルバムや写真の中から目的の写真を探し出すのは時間も体力も必要です。しかし、その家族、友人、知り合いなどみんなで協力すればそれを短縮することができる。これはこの写真返却に関してだけでなくこれからの復興にも共通する大切なことであると担当者の方は教えてくださりました。
「私たちがボランティアなどで復興の協力をすることはできますが、最終的にはその町に住んでいる人たちが頑張らないといけない。それは個人個人の努力だけではなくみんなが協力して助け合いのもとでこそ成り立つものである」と…どんな大きなことでもたくさんの人が力を合わせて協力すれば達成される。私はそう信じています。
思い出は人を強くさせるもの。
今回の震災で大切な思い出が流された方はたくさんいらっしゃいます。
そんな方に少しでも大切な思い出が戻るように心から願っています。
人がいる、人が来ることの大切さ
東日本大震災から1年が経つこの日、私たちは岩手県釜石市箱崎町でボランティア活動を行いました。ボランティアの人数はやはりこの数日間で1番多く、ボランティア宿舎にも収まらない程でした。この日の作業は箱崎の学校のグラウンドの清掃です。学校のグラウンドといえば整備が施されているため平らで走りやすいのが私のイメージです。しかし、そこにあったのは、大きながれきは無いものの、生活用品や貝殻、ガラス片等の普通あるとは思えないものが、いくら掘っても出てくるグラウンドでした。その光景を見て1年前まで生徒たちが走り回っていた場所とは、私には思えませんでした。
グラウンドの状態。陶器、ガラス片、瓦等落ちているはずのないものが落ちている。
作業自体は14時に終了し、そこから私たちは地震発生時刻である14時46分が訪れるのを待っていました。すると少数ではありますが、この場所で暮らしていたと思われる方々が、住宅跡地の方へ行かれるのが見えました。震災から1年が経つ箱崎の地を見つめながら、何を思っていらっしゃるのでしょうか。一緒に来た人と話している人、ただ見つめている人。私にはその方々の気持ちを想像することしかできません。
箱崎町の宅地跡。奥の方は少し土地が高くなっているため、同じ町内でも被害が少ない。
その方々が自宅の跡を見つめる表情は1人1人異なっています。この場所での生活を思い返しているのか、少しやわらかい表情の方もいれば、悲しみで満ちた表情の方もいます。また、何かの決意をしているような表情の方もいました。震災前の生活、震災が起きてからのこの1年間が異なるため、表情が違うのは当たり前です。しかし、どの方からも、その表情の裏側に何かに対する「想い」を感じました。家族を想う、友人を想う、箱崎での生活を想う。その方向は違っても、愛する何かを想っているという点では、あの時間、皆さん同じだったのではないかと思います。
14時半頃、ある箱崎町民の方がお話をしてくださいました。私はその方がおっしゃったある言葉が印象に残りました。それは「今、大勢の方々が箱崎にいる光景を久々に見ることができて、とても嬉しく思います。」という言葉です。震災前、この街にもたくさんの方が暮らしていらっしゃったでしょう。今は震災の影響で人影が少なくなっています。
私たちは「東北に行くなら、ボランティア等をしなくては」と思いがちかもしれません。しかし、1年が経った今、ボランティアや観光に関わらず「人がこの場にいること」が大切なのではないかと思います。何も無い空き地でも、子供が集まって遊んでいれば、楽しい場所になるように、人が集まればその場所の雰囲気も変わるもの。人が集まるならば、「お店を出そう」など1歩前に踏み出そうと考える方もいらっしゃると思います。現地の方々の「キッカケ」がこの場所に私たちが来ることで生まれるかもしれません。そのキッカケを生み出すためにも、現地で誰よりも先に一歩を踏み出し、人が来ることができる準備を整える人が求められるのだと思います。
そして14時46分のサイレンが鳴り、ボランティア一同は海の方を向きながら黙祷。やっと1年経ったと思う人もいれば、もう1年も経ってしまったと思う人もいます。現地の方のお話を聞いているかぎりでは、後者の方が多い気がしました。生活そのものががらりと変わり、目まぐるしく過ぎて行った1年だったのではないかと思います。
復興計画が立てられ、ここからそれが具体化していき、何十年という長い年月をかけて街が復興していくでしょう。復興していく過程で、実際に目で見ることができる、また感じることができる震災が残した爪痕は、毎日少しずつ無くなっていきます。今日私たちが見た箱崎の光景や雰囲気を知っているのは私たちのようにその場にいた人間だけ。それは私の財産であり、またみんなで共有すべき情報です。関西に戻ったら、その情報を自分の周りの人に言葉で伝えることから始めようと思います。言葉にすることの難しさを東北に来て毎日感じます。言葉は大きな影響力を持つものでもあり、時に儚いものでもあるからです。しかし、まっすぐにこの震災と向き合い、その一言をみつけていきます。
復興が終わる日
この日東日本大震災が発生してからちょうど一年がたちました。
この日僕は釜石市箱崎町にある学校のグラウンドの清掃作業に参加しました。海に近いこともありグラウンドにはかつて使われていたことであろう陶器の破片、ガラス、赤レンガ、木材、排水管の一部分などがグラウンドの上に転がっていたり埋まっていたりしていました。今回の活動はこれらを可燃物、金属、ガラス、赤レンガ、コンクリートに分別をして集めます。震災から一年の節目の年でもあり活動に参加している人の数もいつもより多かったような気がします。
清掃中に集めている瓦礫などを見ていると防波堤の一部と思われるコンクリートの塊が転がっていたり、津波の力を再認識させられるものがあちらこちらに見受けられることができました。 そしてこの日、作業自体は14時ごろに終了しました。 その後、地震の発生した14時46分に今回の震災で亡くなった方々に黙とうを捧げました。
津波によって倒された防波堤。
右端の車で防波堤の大きさが分かると思います。
津波によって流された宅地跡
活動を終えて遠野市に戻ったあと、住民の方のお話を聞くことができました。その方は「震災から一年がたったが、当時に比べて報道の数が減った。3月11日前後は多く報道されるがそれを終えるとまた報道の数が減る。」と仰っていましました。 震災から一年が経過しました。テレビなどの報道数も震災直後に比べて大きく減ってきました。東北から離れた地域で暮らしている人はテレビなどの情報でしか現地の様子を知ることができません。その報道では比較的復興の進んでいる所を取り上げることが多いです。
確かに仮設商店街など復興の兆しとなる施設ができてきています。しかしその報道だけを見るとどうしても復興が進んでいるのだと認識してしまいます。津波で流された住宅の跡地の清掃は人数にもよりますが一日に1軒~2軒が限界でした。この他にも海水で鉄筋が錆びてしまった建物の錆び取りや、カキ養殖のいかだつくりのお手伝いなど復興に向けてしなければならないことはまだまだあります。 震災が発生した当初よりメディアによる報道が減り、東北への関心も当初よりは低くなっていると思います。震災から一年を迎え瓦礫の問題、原発の問題など、復興に向けて自分達に何ができるのかを改めて考え直すべきではないかと思いました。
最後になりましたが復興とは何なのでしょうか?自分が思うにそれは現地の人たちが決めることだと思います。復興の意味は『いったん衰えたものが、再びもとの盛んな状態に返ること。』あります。震災前、現地の方々がどのような生活をしていたかは僕たちには分かりません。再びもとの盛んな状態になったかはその地域に暮らしている人にしか実感できないと思います。その地域に住む方々がそう実感できる日まで復興作業は続くのだと思いました。
大槌町の仮設商店街のお店











