白井久也の投稿一覧
3月
15

~三陸鉄道・再開PR動画撮影会~

4月1日に北リアス線陸中野田駅から田野畑駅間の運行が再開します。その再開を喜び、また震災復興支援への全国、全世界への方々への感謝の気持ちを表すため、「笑顔をつなぐ、ずっと・・・」をテーマに再開PR動画の撮影会が行われました。私たちはその撮影会に参加し、三陸鉄道の現状などを学びました。

久慈市→野田村→普代村の順で移動し、PR動画を撮影しました。この撮影会には小学生の子供たちからご年配の方まで、幅広い年齢層の地元の方々が参加していました。参加者の様子を見ていると、三陸鉄道は本当に地元の方々に愛されているのだと感じました。

楽しく電車ごっこでPR

しかし、三陸鉄道は震災前の通常運行状況でも乗車客は少なく、経営が難しかったといいます。「年に一度は三陸鉄道に乗ろう」というポスターが作られるくらいです。その経営難の背景には、北岩手沿岸部の車社会があります。地元の人々の主な交通手段は自動車です。そのため、鉄道を使うのは車を運転できない幼い年齢層とご年配の年齢層です。時刻表を見ると、電車が来るのは約1、2時間に1本と、大変少ないと感じました。電車の本数が少ないから鉄道を利用せず自動車で移動するようになる。自動車での移動が増え、鉄道の利用が少なくなると電車の本数がさらに少なくなるという負の連鎖になっていると思いました。この現状を改善するには、今以上に鉄道の魅力を発見し、PRすることが必要です。

 

今回の再開PR動画が三陸鉄道をさらに活気づける一つのきっかけとなり、いつまでも地元の人々に愛され続ける三陸鉄道であってほしいと思います。

 

(PR動画は3月中下旬にYouTubeなどで広く公開される予定です。)

運休中の線路上に入らせてもらいました。

3月
2

3月2日~野田村・普代村~

この日は午後から野田村と普代村へ向かいました。

野田村は久慈市周辺の市町村の中では、一番津波の被害を受けたところです。震災前、沿岸部にはたくさんの住宅が建ち並んでいたようですが、現在はそのような光景は見られませんでした。住宅が残っている場所と更地になっている場所がはっきりしているので、津波がどこまで来たのかということもよくわかりました。また、堤防も破損しており、テトラポットも流された跡がありました。瓦礫撤去をして、更地になっている場所は、現在雪が積もって落ち着いていますが、その前は浜風によって巻き上がる砂埃がひどかったそうです。青森県の八戸市が野田村の瓦礫の処分受け入れ先として申し出てくれているそうです。各地で瓦礫の受け入れ先が決まらず、復興が遅れている状況で、八戸市のような市町村があることを知り少し安心しました。瓦礫の受け入れ先となる市町村が少しでも増えていくことを願っています。          

野田村。津波の被害を受けた場所に雪が積もっていました。住宅の残っている場所との境目がくっきりとわかります。野田村

 

野田村は塩づくりで有名な街で、昔から魚介類の保存などに塩がよく使われたそうです。しかし昭和24年の自給製塩廃止により、数百年以上続いた野田塩の歴史は幕を閉じることになったそうです。以来、絶えていた野田塩の歴史も、久慈広域観光協議会の貫牛さんが若いころ村の青年たちと一緒に復活させ、再び特産物となり継承されています。 

昔、塩を牛の背に乗せて運んでいた。そのシーンを再現した石像。石像

石像の前には、観光に来た人たちによって復興へ向けたメッセージを書いた石が積まれていました。ぜひ多くの人が訪れて大きな石の山を作ってほしいと思いました。

 また、野田村の村長は被災後半年ほどで、「いつまでも支援を受けていてはいけない。自分たちで復興へ向けて動き出そう。」という声を挙げたそうで、そうしたことが復興を早く進める鍵になっているのだと感じました。どのような組織でもこのようなことを言える人がリーダーになるべきだと思いました。 

 

普代村には、河口付近に大きな水門がありました。

津波から村を守った水門水門

この水門があったおかげで普代村はほとんど被害がなく、死者数も0だったそうです。昔、水門を作る際、村民からはこのように大きな水門はいらないとの意見が多かったのですが、当時の村長さんが反対意見を押し切ってこの水門の建設をしたそうです。当時は費用がかかることでも、後に役に立つ。このような政策は難しいものだと思いました。

 この日、久慈市周辺の沿岸部を一通り視察しましたが、被害を受けている場所と受けていない場所が疎らにあり、地形や防波堤の有無、住宅の位置などのさまざまな要因が関係しているようでした。

2月
29

陸前高田市と釜石市を視察

遠野市から陸前高田市へ向かいました。もともと市街地があった場所に着くと、周りには瓦礫の山と少しの建物以外何もありませんでした。まず、陸前高田市の市役所を視察しました。市役所の建物の中には潰れた車が入り込んでいるなど、津波の爪痕はまだはっきりと残っていました。次に、駅を訪れました。ホームの形は残っているものの、駅舎は無く、線路も見当たらず、説明されなければ、駅だとはわからなかったです。

写真1:陸前高田駅のホーム。点字ブロックが雪の下に埋もれていました。雪に隠れたホーム

夏に南三陸町で体験したのと同じように津波の被害状況を目の当たりにして、呆然とし、言葉が出なかったです。また、もうすぐ震災から1年が経つのに復興が想像以上に進んでいないことに驚きました。瓦礫を一か所に集めることまではできるが、その大量の瓦礫を処分できなくて復興が進まず困っているらしいです。

 

その後、釜石市へ向かいました。釜石市に着くと、高台に上がり釜石湾を眺めました。この高台には、[GPS波浪計陸上局舎]や[津波防災監視装置中継所]などの装置があり、津波への対策は出来ていたのだと感じました。この湾には水深60メートルの地点に造った世界最大級の湾口防波堤があり、その防波堤のおかげで津波の到達時間を少し遅らせることができたらしいです。高台から見てわかるくらい、防波堤は津波によって破壊されていました。ここでも、津波の恐ろしさを実感しました。

写真2:釜石湾の湾口防波堤。一部破損していました。破壊された防波堤

続いて、釜石市の市街地も見て回りましたが、陸前高田市ほどの被害状態ではなく、すでに復旧しているお店などもありました。しかし、流されていなくても、『解体可』と外壁に書かれている建物が多くあり、ここもまだまだ復興が進んでいないのだということがわかりました。

瓦礫の受け入れ先を作ることや、復興するための一連の流れをハード面で整えることなど、さまざまな課題が見つけられました。