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3月2日~野田村・普代村~

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この日は午後から野田村と普代村へ向かいました。

野田村は久慈市周辺の市町村の中では、一番津波の被害を受けたところです。震災前、沿岸部にはたくさんの住宅が建ち並んでいたようですが、現在はそのような光景は見られませんでした。住宅が残っている場所と更地になっている場所がはっきりしているので、津波がどこまで来たのかということもよくわかりました。また、堤防も破損しており、テトラポットも流された跡がありました。瓦礫撤去をして、更地になっている場所は、現在雪が積もって落ち着いていますが、その前は浜風によって巻き上がる砂埃がひどかったそうです。青森県の八戸市が野田村の瓦礫の処分受け入れ先として申し出てくれているそうです。各地で瓦礫の受け入れ先が決まらず、復興が遅れている状況で、八戸市のような市町村があることを知り少し安心しました。瓦礫の受け入れ先となる市町村が少しでも増えていくことを願っています。          

野田村。津波の被害を受けた場所に雪が積もっていました。住宅の残っている場所との境目がくっきりとわかります。野田村

 

野田村は塩づくりで有名な街で、昔から魚介類の保存などに塩がよく使われたそうです。しかし昭和24年の自給製塩廃止により、数百年以上続いた野田塩の歴史は幕を閉じることになったそうです。以来、絶えていた野田塩の歴史も、久慈広域観光協議会の貫牛さんが若いころ村の青年たちと一緒に復活させ、再び特産物となり継承されています。 

昔、塩を牛の背に乗せて運んでいた。そのシーンを再現した石像。石像

石像の前には、観光に来た人たちによって復興へ向けたメッセージを書いた石が積まれていました。ぜひ多くの人が訪れて大きな石の山を作ってほしいと思いました。

 また、野田村の村長は被災後半年ほどで、「いつまでも支援を受けていてはいけない。自分たちで復興へ向けて動き出そう。」という声を挙げたそうで、そうしたことが復興を早く進める鍵になっているのだと感じました。どのような組織でもこのようなことを言える人がリーダーになるべきだと思いました。 

 

普代村には、河口付近に大きな水門がありました。

津波から村を守った水門水門

この水門があったおかげで普代村はほとんど被害がなく、死者数も0だったそうです。昔、水門を作る際、村民からはこのように大きな水門はいらないとの意見が多かったのですが、当時の村長さんが反対意見を押し切ってこの水門の建設をしたそうです。当時は費用がかかることでも、後に役に立つ。このような政策は難しいものだと思いました。

 この日、久慈市周辺の沿岸部を一通り視察しましたが、被害を受けている場所と受けていない場所が疎らにあり、地形や防波堤の有無、住宅の位置などのさまざまな要因が関係しているようでした。

1 コメント “3月2日~野田村・普代村~”

  • 前原 慎吾 2012年3月5日 11:55 PM

    当時の村長さんが反対を押し切って建設した水門のおかげで、あの巨大な津波であったのにもかかわらず死者数が0人ということはとても素晴らしい事だと思いました。村長さんはいずれ巨大な津波が来ると予想していたんですかね(^^)??