3月2日~洋野町編~
本日は前回の記事でも書かせて頂いた「いわてあおもり復興応援協議会第二回商品化会議」において紹介されていた久慈市周辺湾岸部を、久慈広域観光協議会の水堀さんが案内してくださりました。
洋野町は漁業ではホヤやウニ、農業では寒さに強いホウレンソウや椎茸に力を入れており、それらに加えて牛を飼って酪農をする人もいます。漁業をする人は漁業だけ、農業をする人は農業だけ、という風に分けているわけではなくむしろ兼業で行う人も多くいるそうです。農業では兼業している人を割と見かけますが、漁業や酪農は農業よりもさらに専門性が高く専業のイメージがあったため意外でした。しかしこれらの職業は安定した収入を望める職種ではないため、いくつか行うことによってリスクを分散させているのかもしれません。
現在私たちが泊まらせて頂いている宿舎の周り(久慈駅周辺)はあまり地震や津波の被害を感じさせないのですが、久慈とほとんど目と鼻の先にある洋野町では、湾岸部ということもありポールが曲がっていたり、マツの木が枯れていたりと確かな被害状況が今なお残っていました。目を引いたのが住宅街の風景です。均したように平になっている土地がいくらか続いたかと思うと目立った傷のない住宅が並んでいる土地、その隣にはまた平地がしばらく続くという具合で上から見ればまだら模様になっているのではないかと思うような不思議な立地となっていました。大きな損傷もなく立っている家は真新しく丈夫にできていたのかと思い、水堀さんに尋ねてみると必ずしもそうではないらしく、同じ津波を浴びてもその土地によって波の角度が変わったため勢いもばらつき、それによって被害状況がまばらとなったそうです。
それからもう一つ考えさせられたのが水堀さんのお話です。漁師の方にとって船は生活の糧であり、そのため津波の警報が出た際、今後の生活を守るために沖の方まで船を持って行った方もいるそうです。沖の方まで持って行けば岸においているよりも少しぐらいは被害がましになるためですが、当然漁師の方のリスクは大きくなります。命をかけてでも守ろうという心意気なのです。
命がなによりも大切というのは当然のことですが、そこで助かったとしてもその後の生活が送れなくなってはどうにもなりません。
実際災害が起こった際に生き残ることができたとしても、その災害によって職を失って生活に困る人は多くいます。そういった兼ね合いが難しいと感じました。
洋野で訪れた「ウニ栽培センター」は津波で大きな被害を受け、現在は使用されていませんが大規模ウニ栽培施設であり、その全てを育てあげて売るわけではなく稚ウニの状態で他の地域へ販売するものもあるそうです。
【現在のウニ栽培センター】
あの大規模な津波でも流されていない住宅があるんですね。夏に訪れたときはそのような真新しい状態の住宅など見あたらなかったので意外です。そこで気になったのですが、その津波で流されなかった住宅では普通に生活を送られているんですか。
夏に訪れたのは大槌町や釜石でしょうか。
久慈はそれらに比べるとずいぶんと被害が軽いためもあるかもしれません。
確信をもってお答えできないのですが
久慈での仮説住宅はかなり減っていることと、洗濯物が干してあったところから
恐らく生活を送っていられると思います。